第二世界大戦の爪痕写真館 教科書に載っていない戦争の史実~オーストラリア パース

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どうも!ニュー次ランドワーホリと田舎移住を目論んでいる島田です!!ちょっと島田では硬いののでIZY(ワーホリ時の僕のイングリッシュネーム)かキングスクリークステションで働いていた時のヤーディーという名前で名乗っていくか?考え中です!まぁ、どうでもいいな箸ですいませんね(-_-;)

 

さて今回は教科書に載っていない戦争の歴史「オーストラリアにも日本軍は攻撃していた」という事を書いてみます。このことはオーストラリアに行かなかったらこのことはわからなかったでしょう。僕自身、ワーホリでこのキングスパークを訪ねてみて初めてわかったことです。今まではアメリカとの戦争の事、原爆の被爆者のこと。この今年感教わってこなかった感じがします。

 

あと僕の地元で一回だけ「731部隊」の展示会が開かれたことが有り、しかもほとんどの資料は配線直前に焼き払われたか隠滅をされてしまったためにあんまりわからないままでした。ねずみにヘルペスを感染させてそれをアメリカ全土に巻くという壮大なことを企てていたそうです。しかもその人体実験の対象は日本人でした。旧日本軍って本当に恐ろしいことを考えていたんですね。

 

この技術力がいい方向に向くことを願っているし、それはいい方向に向かっているというふうに感じているこの頃です。しかし、いいものは悪用すればそれなりに悪用でき、善用しようと思えば善用したなりの結果になります。結局人のモラルがずっと試されていると感じます。

 

 

◆オーストラリアにも日本軍は爆撃していた

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さて、話がそれてきたので今回はオーストラリアのパース、キングスパークの戦争の記念碑のフォトギャラリーです!それともうひとつの史実として日本へ行って一番被害を与えたのはアメリカではなく意外にもフィリピンでした。マニラ市街地戦で多くのフィリピン人たちを殺していますね。ここら辺もオーストラリアワーホリに行く前にボランティアツアーで行っていたことがあって、このオーストラリアワーホリで点と点が線でつながった感じになりました。これもおいおい書きますね。

 

爆撃はダーウィンとブルームを攻撃していました。しかし連合軍によって日本側が甚大な被害を被ったために

そしてこのキングスパークに来てわかったんですが、アメリカのGHQ最高司令官、ジョンマッカーサーも実はオーストラリアに来ていたんですね。このことも新鮮で、日本の戦争教育というのは加害者という意識を植え付けて自分たちを攻めたいのか?それとも原爆の被害者意識を強く持って訴えたいのか?よくわからなくなりました。

 

原爆の被害者に対してかつてシドニーのシェアハウス一緒に暮らしたインド人はブッタギリをかましたことがあり、これは確かに一理ある見解だな、と思いました(しかしコイツの自己チューさと人の話を聞かないのと人にとって何が迷惑なのかを気にしないという生活態度の悪さに頭に来て喧嘩になりましたが笑)

 

でも原爆に関して言えばなんで日本が非人道的だというのを訴えているのがわからないということを言っていた。これに関しては全く同感で、僕個人的には

 

「原爆を落とされるまでが非人道的ではなかったか?」

 

という疑問もあるから。あとこのインド人は

 

「じゃぁ原爆を落としたことが非人道的であるということよりも、原爆が落なかったら戦争が終わっていたのか?」

 

ということを聞いてきた。確かにそれも一理あるという気がしてしまった自分がいた(こいつは嫌いだったけどね)これがない限りもっと長く続いていたような気がする。アクメで結果論だからわからない。結局真珠湾攻撃ってアメリカを足止めさせるのが目的であって日本軍はアジアを攻めたかったんだって。結構やっていることは人道てきではないよね。

 

かなり戦争を考えさせられた場所、キングスパーク。かつて日本が侵略するまでオーストラリアは「実弾の打ち方なんて知らないよ」とか、ダーウィンでは亜熱帯気候のために信管の保存ができなから武器を置いておくことができない。どうしたらいいんだ!とかいうほど戦争とは無縁の国でした。そんなところを突然侵略したわけなので。。。。

 

詳しい戦争のことはウィキ参照

 

◆戦争の爪痕、オーストラリアのキングsパークのギャラリーです

さて、ではおまたせしました!!ここからがギャラリーです!夜に途中でなってしまったので見づらいかと思いますがご容赦ください。キングスパークの戦争の記念碑と平和の火。これらは今も消えずについています。

 

少ない枚数しかなく、すいません。

 

◆以外に知った戦争の裏側~マッカーサーの脱出劇が実はオーストラリアで繰り広げられていた

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マッカーサーはこの功績で米軍最高の「名誉勲章」を受けています。

マッカーサーはルーズベルト大統領からの脱出命令を拒否、マニラに侵攻してきた日本軍と激しい戦闘を続けましたが、再三の命令でマニラ湾のコレヒドール島を脱出。日本海軍艦艇の目をくぐってミンダナオ島へ上陸。

17日にミンダナオのデル・モンテ秘密飛行場からB-17爆撃機でダーウィンに向かいましたが、ダーウィンが日本軍機の攻撃を受けていたのでそこから80kmほど離れたバチェラーという町の飛行場に着陸。バチェラーからアリス・スプリングズに移動します。

 

そこから70時間もかけて木製の硬いイスの旧式の蒸気機関車でアデレードの北220kmのテロウィーという町に向かいます。テロウィーから特別列車で3月21日にアデレード到着。アデレードでの記者会見であの有名な”I shall return”の声明を発表します。そして翌22日にアデレードからメルボルン着。待ち受けていたオーストラリア政府の要人たち、米軍部隊、オーストラリア軍部隊と市民の大歓迎を受けました。

(この脱出行は大変劇的なもので、映画にもなりました)

その映画はこちら

 


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その後、マッカーサーは新しく創設された連合軍の西南太平洋方面軍司令部の総司令官に任命され、ブリズベーンに司令部を設置して対日本軍への作戦の権限を持ち、引き続き日本軍への反撃をしていました。コアと日本軍は撤退します。

 

◆以外に知られていない日本軍の被害の状況と戦地

ちなみに、フィリピン戦での日本軍の死傷は一万一千で、太平洋戦争緒戦の他の戦場での日本軍の被害を大幅に上回っている。香港作戦は2100、マレー半島作戦3800、シンガポール作戦5100、ジャワ作戦960、、、フィリピンのマッカーサー軍の抵抗がいかに激しかったを物語っています。

そして戦争で一番被害をもたらしたのはマニラでのフィリピン人の方たちの被害が甚大です。アメリカとの戦争なのに何故かフィリピンに一番ダメージを与えた日本軍。意外に僕たちは戦争を知りませんね。

 

まだ戦争のギャラリーは続きます!

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フルーツピッキングのメッカ!Donnybrook でも戦争の歴史はあります!

 

 

 

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