I'z log ~イズログ 人生をイージーモードに

雇われすぎず、働きすぎず、食うために生きない。生きるついでに食っていこうよ。だって腹減るじゃん的な生き方をするブログ

ソトゴモリぷれいすのコンセプトとは?

 

 

どうも、イズです。

 

修正加筆にいなります。ソトゴモリプレイスのコンセプトを書き直します。大筋はあっていますが、個人的に考えて深堀してみたところ、根底にはオーストラリアワーホリも関係していたという事をどうしても書きたいなって思ったのでそれを加筆します。

 

プレオープンを2022年8月4日にして今年は10月20日にいったん閉じました。来年の運営資金を稼ぎに行かねばいけないためです。

 

 

この記事は愛媛のみかんアルバイトの最中に書いています。

 

あまり変わらない内容ですが、前半にワーホリのことが挿入されました。それだけです。

 

では書いていきます

 

 

 

まず最初にソトゴモリプレイスのコンセプトについて

 

 

 

というのがコンセプトです。

 

なかなか相反するものが多いですが、自分が今まで嫌なことをしてきたり、されてきて自分があったらいいなという事を詰め込んだものが上記のものになります。これは今のところでのことで変わっていくと思います。むしろそうあるべきだと個人的に思っています。

 

 

なんかいろいろ履歴書やら他人に押しつけがましい爺様方と話したり派遣の人事と会話をしてきたりして出た結論なんです。

 

 

肌感覚をまだかみ砕けていないのですが、今の若い人が生きにくいと感じること、ストレスと感じることは

 

 

「他人が他人を決めつけておきたいという事の弊害を受けているから」

 

 

という持論があります。

 

 

なんかね、押しつけがましい会話から始まる人が多いんですよ。転職したい時だって履歴書の前職の職歴見て「前の職種に戻られた方がいいのではないでしょうか?」とか、派遣コーディネーターは前職の職歴と同じ職場に人を突っ込むなら楽だからとにかく転職したいというこちらの思いを無視して今までの職歴を生かして~というような話をしてくる。

 

でもそれはわかりやすいから仕方ないんですよね。わかりにくい奴は敬遠されがちですし。

 

 

だから自分の杓子定規で測れる状態に人は自分の下に人を作ってそのままにしておきたいんですよね。それで測れなきゃそっぽむくし。

 

 

就農をやめた時もそう、転職をしていた時もそう。確かに職歴は相手にわかりやすいからの相手も理解する手間を省きたいんだと思う。なんか相手のやってほしいこういう事というよりも、自分がめんどくさくないできることで相手を丸め込もうとしてくる奴が多すぎると感じています。

 

 

だからそういうやつらと縁を切って再スタートを切れる場所を自分で作る必要があるんです。だからソトゴモリぷれいすなんです。

 

 

まず加筆の出来事として

 

やはりオーストラリアワーホリの体験が外せないのでそれを序盤に書かせていただきます

 

 

 

原点体験1 オーストラリアワーホリに行くまで~北海道での一人暮らしを辞めるまでにあったこと

 

かなり書いてきたことなんで蒸し返しになるかもしれませんね。ソトゴモリプレイスを作るという事に自分を向かわせた出来事や、無意識にこういう事なんだという事を考えさせるようになった原体験はやはり大学を卒業した後の一人暮らしの中にあります。

 

なんか働くといいことがないんですよ、ほんとに

 

 

まずはおさらい?的なことを書きます(笑)

 

 

俺が大学卒業して一発目で入った会社はコムスンという2000年代前半に介護の民間委託という制度を利用して大きく広がった会社だ。そこに入社したんだが、介護報酬の不正請求で利用者に裁判を越され、最高裁で負けて解体になったことと、ずっと給料、手当の未払問題でもめていたことに嫌気がさした。

 

先輩の夜勤手当や、俺の代々木公園での研修費が一向に振り込まれない。当時の六本木ヒルズの本社に毎日請求をしていたしその電話をしていたのはなんでか俺だった。

 

入社して1か月が過ぎた5月25日(まだ覚えてる(笑))、担当者から今まで働いた分はこれから夜勤に入れば稼げるよと言われて切れてその場でやめるとホーム長に告げた。

 

その後大卒の俺を引き留めにきたエリアマネージャーは俺が辞めるよりも2週間早くその会社を辞めていたことに腹を立てていた。そしてこの人は女の人なんだが、笑うと前歯の神経が4本死んでいるようで紫いろの歯が武器に垣間見えるやつでみんなは「歯みせんぢゃねぇよ!」とか言っていたことも鮮明に覚えている(笑)

 

このことがストレスで会社で働くという事にストレスを覚えるようになり、日雇いを転々とするようになる。あの当時は仕事っていうものに興味があった時代でいろいろやったうえで決めたいと思っていた。

 

 

ライブイベントの舞台設営(2度とやらねぇ)

札幌ドームのライブ会場の警備(2度とやらねぇ)

ロックフェスのステージの設営と解体(2度とやらねぇ)

研究室の引っ越し(2度とやらねぇ)

某コンビニの新作のお披露目のイベントの企業機密保持のためのごみ捨てとかいう仕事(2度とやらねぇ)

教科書販売の呼び込みなど(2度とやらねぇ)

 

etc・・・

 

 

交通誘導員を支笏湖でやり、その後スキー場へ意を決していく。でもリゾートバイトってそこまで決意をしていくものでもないっていう事を何となく知った。

 

 

北海道の一人暮らし生活も2年目に入ったとき、交通誘導員のバイトをした。

 

その会社のとある現場の監督に、

 

 

「ガードマンなんざほんとはいらねーんだよ💢」

 

と言われたことに腹を立てました。

 

誘導の仕方がうぇあるかったらしく、ダンプの運ちゃんが縁石の上でハンドル切ろうとしていてそれに気づかなかったことで怒られた。まぁそこでハンドル切ればパンクは必ずするよね。

 

ならガードマンなんて雇うなと腹を立ててそのうちにそこの警備会社も辞めた。

 

 

その現場に一緒に行ってた定年した人が言っていたけど、「まぁ、生活あるからねぇ。」っていう一言。

 

 

家賃払うためにあんな奴の意味の分からんしかりを受けながらすいませんとか言える神経って俺はありません。そこまで下るなら全部やめる。ほんとに山の奥でも言って自給自足したほうがましです。

 

 

この交通誘導員→スキー場という生活を2年ほどして北海道から実家の埼玉に戻ります。

 

 

この時から「むかつくお金のもらい方をいかにしないか」をぼんやり考えることに明け暮れていたと思います。

 

 

 

 

 

原点体験2 実家に帰るが満たされない

 

 

 

北海道の暮らしでは履歴書を書きまくって応募動機は書けなくなっていました。

 

応募動機に関して言えば、俺の持論ですけど

 

 

初対面の相手、もしくは知り合いもしていない人に対して結婚してくださいというようなものだ

 

と感じています。だって募集要項の裏側が一番重要なんだからさ。結婚するにしても妥協する部分やら見続ける部分があるからじゃないの?

 

 

まずは初めましてから始まって友達になって、彼氏、彼女の関係になりたいから告ってさ。それがOKなら付き合っていろいろわかっていって、結婚を前提として付き合いたいっていうならまたものの見方も変わるじゃん。

 

 

そういうところをぶっ飛ばして書くのが履歴書の応募動機って思います。

 

なのでもう職歴書くことすらストレスになっていました。面接行っても仕事続かないでしょ?とか言われるのがいやで(笑)

 

 

いやいや続けるのもどうかと思いますがね。さて、話は戻り、実家に帰ってきてもなんかやりたいこともなく、実家にいても最初はよく帰ってきたとか言われたけどい続けると早く働けと言われるし。

 

 

この居心地の悪さはなんなのか?それと自分でなんか稼げないだろうかと考え始めたのもこのころ。当時はせどりが出てきたときでTポイントでブックオフで本を買って転売したら現金がゲットできるっていうときでした。アマゾンも今ほど大手ではなく赤字の企業でした。

 

ガラケーでバーコードを入力して相場を見てという事をちゃりこぎながらやっていましたね。でも生活できないからプレッシャー家族からは冷たい目でした(笑)

 

この年は12月まで引きこもります。預金も底をつきます。働くという気が完璧に失せたのもこの年で、一人暮らしから思ったことは家賃のためであればずっと働けるのか?という事です。

 

無理

 

です。

 

 

引きこもっている間に実は青年海外協力隊の募集に二回応募します。フィリピンのボランティアツアーにまで参加して経験をしたのですけど落ちました。

 

 

根本的な問題は血液型で、ABO判定では実は判定不能と出ます。父親方の家計がそのような血液型で、母子手帳はO型ですが、20歳の時に肩の脱臼の手術をして、その際に遠心分離機で精密に血液を調べたらB亜型という血液型でした。

 

 

なので最初から受からないっていう事に気づくべきでしたね(笑)

 

 

その後は年末から翌年の春までボラバイトで北海道で酪農のバイトをし、その後、フランスへ友達つてにいきます。この時に青年海外協力隊の任期である二年を何かで埋められないだろうか?という事でオーストラリアワーホリに行きます。(セカンドビザがあるために二年行けるため)

 

2011年 10月16日です。福島の出の地震と津波がありました。関東ではかなりの揺れだったようですが、北海道の塩田郡というところでは全く揺れませんでした。テレビで津波で流されている車を見ても実感がわきませんでした。

 

 

青年海外協力隊の埋め合わせをするために。

 

 

 

原体験3 生き方を学びにオーストラリアワーホリに行く。そこでVicさん、 Mikeさん  Ianさんに出会い、起業をしたいと思い、帰国した

 

有り金と足りない分を貸してもらい、オーストラリアワーホリに行きました。フランスへ誘ってくれた友達がいて、何もわからずにフランスへいって、そこで確信しました。

 

ワーホリに行くべきだ!っと・・・

 

結果から言いますが、起業をするという事を決めて帰国をしたんですが、それを決めるように影響を受けた人物がいます。

 

初めに働いた場所、Vic’s timber sawmill の創業者のVicさん。

 

この人は二度の倒産を経てこの製材所を営んでいる人でした。熱意と情熱と姿勢が良ければ大丈夫だ!銀行は融資してくれる!という事を木材を積んだトラックの中で力説してくれたことを覚えています。

(写真は工場のあった田舎町の風景)

 

 

そしてなるほど!っと思ったことは「不況を終わらせる秘密」の話です。ヴィックさん曰く、「みんな働けばいいんだよ。求人の空きがなくなってみればいいんだよ。そうすれば不況はなくなるんだよ。」という話をしてくれたことは新鮮で確かに!って思わせてくれます。

 

 

二人目 Yurt FarmのMakeさん

 

オーストラリアのウーフブックに載っているYurt Farmに行きました。ここのオーナーのマイクさんは大好きです!ここから離れたくなくて最後の日はずっと泣いていました。

 

 

 

 

マイクさんはもともとは羊毛を売って生計を立てて暮らしていました。

 

しかし、80年代になり、化学繊維の出現で価格競争に勝てずに羊毛は売れず倒産。閉園して都会に出ることになります。この時にこの人を好きだなって思うエピソードが一つあり、この閉園した場所から去る時に「当時買っていた一匹の犬とともにここを出たんだ」って話をしてくれて、こういうところがほんとに好きです。

 

 

その後オフィスワークをしていましたが「こんなのは俺がやりたいことじゃねえ!俺の人生じゃねぇ!」といって何のあてもつてもないままに閉鎖した農場に戻り、いったんアメリカに小屋を建築するボランティアに行きます。

 

この時に今のYurt(小屋)の設計図をもらい、オーストラリアに戻ります。

 

 

 

 

その小屋を敷地の中のいたるところに作り、ウーファーと協力して作ります。上記の写真の中には確か江戸川ってマイクさんは言っていて、そこからもここにきて歌舞伎の絵をかいて帰った日本の生徒がいました。

 

この小屋を宿泊できる場所にし、「Back to Basics」をコンセプトとしたYurt Farmができました。

 

 

 

豚の餌やり、カウボーイや学校が来たらみんなでパーティーをする。ほんとに楽しかった。

 

 

 

中でも好きだったのはこの犬。迷犬ディナ(笑)なんかかっこいい猟犬なんだけどどこか抜けている。その抜け具合が好き。

 

とてつもなくでかい虹も出た

 

マイクさんもいったんは倒産してそこから自分のほんとにしたいことを自問自答して今に至った人。そういう人を見てきた。そしてこのYurt Farmに来た人たちはほぼ起業してるから君もできる!的なことをマイクさんに言われたことも覚えてる。実際に日本からはがきを送ってきてくれた人もいて、それを見せてもらった。

 

 

なんかここはパワースポットなようだ。こういう場所を作れたらいいとぼんやり考えていました。

 

 

 

ここではいろいろ直したり立てたりしました。ほんとに楽しかった!

 

 

 

三人目 Ianさん kings creek  station

 

エアーズロックから約100キロ離れた場所にキャラバンパークを作ったオージーがいた。しかも砂漠のど真ん中で一本のスペードからこの場所を作ったというど根性オージーだ。

 

もともとここで働くためにワーホリに来たようなものだ。なんとしてもここで働くという目的を達成しなければいけなかった。履歴書を何回も送って運よくここへ来ることができた。

 

ここを作った人はIanという人。彼は特殊な人でオージーでありながらアボリジニの祖母に育てられるという経歴を持つ。それがゆえにアボリジニの言葉と英語を話せる貴重な白人の人だ。

 

幼いころに生母が死んでしまい、代わりにアボリジニの祖母に育てられ、この砂漠での生き方は実父に教わり、狩りはその知り合いの人に教わったといっていた。

 

この砂漠で水が使える施設を作り、シャワーが使え、かつトイレも使える、挙句の果てにプールまでも使えるオアシスを作った人。もちろんどでかい発電機も二台あり、キャラバンの中のエアコンも使えるようになっている。

 

 

 

ここで働くという事はほんとに楽しかった。それにかなりの勉強をした。なんでかと言われれば、無線でコミュニケーションをとるという事も要求されるからだ。

 

 

ほんとに聞き取りづらいんですよね。これができなくて何人もの日本人が首になったことか(笑)

 

という事を教えてくれた人がいた。

 

 

 

クリスマスにはパーティーを

 

 

    

 

落雷で森林火災に巻き込まれ、これを消しに行くという事もやった。ほんとに死ぬと思った(笑)

 

 

なんやかんやで生きているんですけどね。

 

こういったたくましさや野性味のあるところがIanのかっこいいところ。こういう経験はほんとに忘れられないし、今も自分の中の開拓精神が生まれたきっかけでもあると思います。だから家も直していられます。

 

 

上の写真の黒い筋は実は水道管。イアンはこういうことをはじめは一人で始めていた。こういう管が張り巡らされているのがここKings creek stationだし、これらをイアン一人でやったことがほんとにすごい

 

 

ここで過ごした日々は今も生きていますし、ここで培った野生のカンが大きいのかな?

 

 

ワーホリから帰国し、一年せどりをするも挫折し、鳥取の農業研修も条件や地域がいやで辞めてそこを出た。しかもこの時にストレスでずっと血便が出ていた。

 

 

ほんとに散々だった時もありました。

 

この鳥取の移住失敗の後にニートの日のイベントに出て四国のお坊さんと山奥ニート、PHAさんという当時の日本一のニートの人に出会います。

 

 

 

 

原体験4 結構ブログ実際にあった人に入ってますけど、山奥ニートさんの住む共生舎に行ったこと、四国のお坊さんのところでお世話になったことの二つの体験

 

 

たしか超長くてくっそめんどくさい自己紹介でも書いたんですけどまた確認の意味で書いてきます。多分ちょっと違うかも(笑)

 

かつて仕事が続かず、3か月以上同じところで働けず転職を繰り返し、地方移住に失敗してノイローゼになりひきこもりになりました。そして和歌山県にある若者が集まる共同生活施設や四国の悩んでいる人の相談にを受けているお坊さんのもとをおとづれことからこのソトゴモリぷれいすの原案ができました。

 

 

時系列は変わりますが最初に行ったのは和歌山にある共生舎という場所。ここは山奥ニートという本を出した人がいる場所です。当時はコロナ渦が起きる2,3年前でしたので短期宿泊も受け入れていました。

 

 

ここはほんとにいい場所ですね。

 

 

ここにおとづれた時だけ目のクマがなくなるほどぐっすり眠れます。

 

 

朝の静けさがほんとに心地いい場所。

 

ここには3回来ました。そして二回目だったかな?よく覚えていないけど、ここに自分の子供を入れたいというお母さんが一人で見学に来ていました。それを横目で見ていたんだけども、やはり親心かだめもとかで「うちの子も・・・」っていうことを言っていた。でも当時は人がいっぱいいる時期だったから案内をしていた人に断られてた。

 

 

この光景がなんでか頭を離れないんです。

 

 

そして二つ目、ノイローゼ気味になってお世話になった四国のお坊さんのところでの体験です。

 

押しかけていったんですよヽ(´Д`;)ノ

 

アポなしで凸しました。それくらい苦しかったから・・・・

 

そそれでも門の前で立ち尽くす俺を見つけると「どうしたの?なんかつらいの?じゃぁはいんなよ」っていう第一声をかけてもらったのを未だに覚えてる。ここから一回目はたしか10日間くらいここに泊まった。

 

 

この10日間で自分の家庭環境と家計のことを指摘されて愕然としたのを覚えています。

 

俺の家計には仕事が楽しいという概念がないんだとか。。。

 

 

 

このお坊さんと過ごした日々は、いろいろな人に合わせてくれました。ないかしらの苦しみを抱えている人が多かったです。でも何も知らない人がそう言う人のところに行くことじたい意味があるということも教えてもらいました。

 

お坊さんと話すうちに働くという価値観はほぼ同じでした。ずっと同じところで働いていたくないけども生活の蓄えがなくなったら、それを補えれるくらいに働いて、それが尽きたらまたはらく・・・っというようなスパンでいけたらいいっていうことを打ち明けたんです。

 

 

お坊さんも昔は知り合いのみかん畑の中の小屋に住んで本を読み、お金が無くなったら畑仕事を手伝うっていうことをしていたそうです。お坊さんになる前のことです。

 

 

こういう生活のスタイルが今は密かな需要としてあるようです。

 

 

こういうところで気が合い、10日間ほど過ごさせてもらいました。

 

 

お坊さんと一緒に時は時間が穏やかで、普段は絶対にしないうたた寝ができるほど安心して過ごしていることに気づきました。「家庭環境」がほぼすべてを決めるという和尚さんの指摘。これは今で言う不安症とか多動性の障害というものの根本とも思っています。

 

 

わかりやすく言えば、身近にジャイアンみたいに不安を間接的であれ直接であれ与えてくる人の影響を受け続けたらそう言うふうになるのは必然だなってことです。

 

 

だからソトゴモリぷれいすというシェアハウスは、なんだかわからないけど安心で切る場所にするということが根底にあります。少なかれ人間関係は人である以上はあります。

 

人と関わらないと言われるインターネットビジネスだって人の関わりがあるからこそ収益になるんです。ちゃんとネット広告の向こう側に人がいます。人とかかわらずして生きていくということは完全な仕組みを構築できる人以外不可能ですから・・・

 

 

俺にはそこまでの頭がないんです。

 

ソトゴモリぷれいすのコンセプトとは?

 

 

というのがコンセプトです。

 

なかなか相反するものが多いですが、これが今の時点でのコンセプト・・・というか俺が思っていることです。

 

 

要はお坊さんのところで過ごした過ごしやすさ+共生舎÷俺のテイストって感じです。(笑)

 

 

シェアハウス界隈ではキラキラ系っていうところがあるようですね。起業家だけを集めたところとか意識が高いなど。ギークハウスにも何回か行きましたけどね。

 

 

いろいろ居場所っていうものを求めてフラフラしたけども、しっくりピッタリ来る場所はなく自分で作るしかねぇわって思ったんですよ。

 

 

やなことあったらうち来いよって感じの。

 

 

まだ始まっていないからこんな感じのことしかわからない。

 

 

今のところの家賃について

 

 

一人部屋×3つで全て月3万円で考えています。そして短期滞在用の8畳間は最大5人(同じグループに限る)、一泊3000円、ハイシーズン料金は4000円と考えています。

 

駐車場は最大で・・・2台かな。俺のエブリーちゃんが出れるようにしておかないとだから。ファミリーバンくらいでかいのは止められない仕様です。

 

 

車幅は軽貨物のスズキエブリー62Vの147CMでギリギリです。ちょっと車の運転が苦手な人には道路沿いの一番入りやすいところに泊めてもらう感じです。家賃込みで駐車場料金は取らないつもりです。駐車場別ってなんか「うっ」って思うでしょ?車持ちの人ならさ。

 

いずれにせよぶつけないでください・・・軽自動車出来てくださいね。アルトとかラパンとか・・・軽バンでぎりぎりきっついです

 

サンキュ (;,;´_ゝ`;□ヾ(・ω・`。) 汗フキフキ

 

 

現時点でのへやはこんな感じです

 

ブログでルームツアーをします。(部屋のリフォーム状況は2021/6月末の時点)

 

では行ってみましょう。

 

 

 

 

まず1部屋目/月3万円 個室

 

 

一番家具が入る部屋です。と言っても5畳くらいです。

 

一番製材所から遠く、原木を下ろすときに生じる地鳴り(笑)がないです。ベッドは押し入れの上の方を改造して寝れるようにしました。引き出しなどをテキトーにジモティーでもらって来て入れようと思っています。

 

あとはPCデスクやら何やらをもらってきます(  ̄ー ̄ )ゞビシッ

 

 

 

2部屋目/月3万円

 

 

 

4.5畳位の部屋です。まぁ仕切りもまだ出来ていないのでイメージがしづらいですけど。

 

一つ目の部屋の向かいになります。

 

ここは狭いですがコンパクトで大きな窓が二つ有り、一番日当たりのいい部屋になります。備え付けのタンスは荷物置き場にするのかワークデスクをその中に作り、ロフトをつくって物を置くスペースを増設するかを考えています。

 

この建物全体の窓は立て付けが悪いのでそれらを二重窓にしてすきま風と冷房、暖房効率をあげるという作業が残っています。それらの結果が一番出る部屋と思います。

 

そのほかカーテン、ブラインドを設置しておこうと思います。窓が大きい分外からも目てしまう部屋でもあるので。

 

 

3部屋目 or 俺の部屋?

 

ここも6畳間になります。押し入れがあり、利便性が高いです。すぐに台所に行けたり、居間にいけたり、トイレにも洗濯機にも風呂にも近いです。

 

ただここは一番・・・寝てられない部屋と思います。

 

 

というのは、ここはとなりの製材所に近い部屋で、朝一の原木を下ろす作業で一番振動と音の被害に遭う可能性が高いです。なのでこちらも押し入れを一つ潰して、断熱材を厚めに施して防音性の高いカプセルベッドにしようかとおもっています。

 

そして少し狭くなる様ていでいます。

 

というのは、この部屋の2畳位を削り、トイレの増設用のスペースと洗面台の移動をしようと考えています。

 

浴室に洗面台と洗濯機を置く排水口があるんですけどこれが風呂の脱衣所にあるんです。だからこれを脱衣所から出したいんです。

 

もし男女混合のシェアハウスになった場合、誰かがシャワーやら風呂に入っていると洗濯も終わったはずの洗濯モノを取り出すことができませんからね。だからここらへんの機能は分けたいんですよ。

 

しかも壁一枚(それなりの防音をしますけどそれなりです)隔てて洗濯機があるので結構うるさいですね。だから俺の部屋にするかドミ専にしてしまうか・・・という感じです。それか短期滞在の部屋を増やすかです。

 

こういう一番悪い面を体験してもらい、それに折り合いが付くかつかないかで長期の滞在をするかしないかを決めてもらいたいですね。

 

まぁ、こういう負の側面を考慮した上で俺が一人でこの部屋に住むかです。

 

 

 

短期宿泊専用(もしくはドミ部屋)

 

 

一置いうこれが8畳間で一番広いです。写真はappemanで撮ったから少し広角気味の写真になって狭いですがが実際にはもっと広いです。

 

このおしい入れを・・・っていうかソトゴモリぷれいすのベッドはこもり心地のいいドラえもんスタイルにしちまうか・・・っていう感じです。もともと大人数での宴会に適した間取りでしたので押し入れにかなりの数の布団があったと思われます。今でも売主が持って行かなかった布団と座布団があります。

 

なんで押し入れをベッド化してしまうかというと、スペースを確保したいからです。

 

和床だと布団を入れる押し入れが必要ですし、布団を入れるだけの機能しかできないためです。

 

その分作業机なり、ソファーなりを置けるのでスペースが確保できていいかなって思います。これだけはもう俺が決めて進めないと進まないから突っ走ります。

 

 

 

浴室

 

実はこの物件を俺が買う2年か3年前に賃借人がいました。夫婦でここを15000円/月で借りたそうですが4日くらいで夜逃げされたようです(笑)

 

その時に大家の負担で風呂とトイレをリフォームしましたが、その元を取るよりも先に逃げられてしまったために困っていた売主。流石にとなりの製材所の音が嫌だったらしく、その説明は十分にしていたのにかかわらず逃げられ、もう貸家ではなくうる一辺倒になったんだとか(笑)

 

 

でもこれは嬉しいですね。

 

しかし水抜きをしていなかったので俺が気づいたときには既にシャワーのサーモが壊れていました

 

 

シャワーヘッドとこの蛇口のセットで108000円するんですよ、調べたら(笑)

 

そりゃ気が滅入るよね、売主もさ・・・

 

 

 

止めになった給湯管は風呂桶の下にあり、これを来年の春にバイパスを新たに通し、既存の管は撤去もせずに放棄します。そうすることで20万くらいに修理代の見積もりを減らすことに成功しました。

 

 

 

 

あとはなんでかしらないけど48000円も取られる使わなくなった蛇口の撤去費用を浮かせるために蛇口をメルカリとかでうればいいか。。。

 

 

 

一番太くて直角に曲がってるパイプが破裂していました。しかも箇所は風呂桶の下(笑)

 

 

入れないからわからんわ!!

 

 

 

この脱衣所の洗面台と洗濯機用の排水口を動かしたいんよね・・・

 

 

 

後こんな感じです

 

 

トイレの写真がなかったのが痛いな・・・

 

 

この物件を買った直後の動画はこちら

 

 

もっともっと変わり果てるんだろうけどね(笑)

 

 

 

都会に疲れた

 

ブラック企業努めに疲れた、すり減った

 

生き方がわからない

 

地方に行ってみたいけど場所が見つからない

 

頑張りすぎない最低限で生きていきたい

 

引きこもった状態に疲れた

そんな人たちのシェアハウスを作っていきたい・・・

 

 

一応コンセプトを喋ってもいます

 

 

こんな奴が作っているんだとさ、っていう感じで聞き流してくれれば幸いです

 

 

 

俺がお世話になった和尚さんはこういう人です。そして、もう他界されましたが、年が3つしか違わない娘さんを持っていました。こういう人を受け入れ、僧侶として寄り添って見届けました。

 

生きていてもいいことがない、あったとしても悪いことでマイナスになってしまうという実例を俺は見ています。

 

生き様に触れて自分はどうするのか・・・それがなんかのヒントと思います。

 

 

ソトゴモリぷれいすのコンセプトを喋りました