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ソトゴモリぷれいす発起人 しまいずの超長い自己紹介と俺の価値観を育んだ経歴

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どうも、イズです。ただ今、

 

 

都会の暮らしに疲れた人
引きこもった状態がつらい人
生き方で悩んでいる人
ブラック企業で磨り減ってしまった人

 

 

 

のためのシェアハウスというコンセプトで「ソトゴモリぷれいす」「ソトゴモリぷれいす」を作っています。

 

改めまして、ソトゴモリぷれいすソトゴモリぷれいす発起人 しまいずです。

 

本名 島田 泉 1984生まれ 37歳(2021年10月現在)

 

 

この記事を書き出したのは10/16日です。この日はオーストラリアワーホリという大冒険に旅立った記念の日なので、この日になんかはじめるということが多いです。そしてこのワーホリから帰国してちょうど10年が立ちました。なんか感慨にふけっていたらこんな記事を書き始めました。

 

今はようやくひとつの目標を見つけることができて、2020/7/30日、人生で初めての空家を買い、シェアハウスを開業することにまっしぐらです。(ただ今出稼ぎ中)

 

これは自己紹介文です。超長くて、長めんどくさくて、読みにくい自己紹介文です。今までの経緯とその経緯から芽生えた今の志のようなものとこれからを書いていこうと思います。おそらく脱線していくと思うので心の中でツッコミを入れなが呼んでくれれば幸いです。

 

 

正直言ってほとんどがネガティブな内容になっています。この記事を書いたとき、なんで人生の大半がこんなにつまらないものになってしまっているのかと愕然としました。

 

 

誕生から幼稚園くらいまで

 

生まれは埼玉県、1984世代。なんか谷間とか言われている世代だそうです。確かにそれほどパットするタレントや有名人、スポーツ選手は会いませんね。84世代、同い年で言えばライム病より奇跡の復帰を遂げたカナダ人アーティストのアヴリルラヴィーンくらいしかわかりません。

 

テレビをかれこれ大学の2年くらいからさっぱり見ていませんのでタレントがわかりません。数レーザーっていう人くらいでしょうかね?今をときめくといえば。。。後お騒がせな人は香里奈・・・あとベッキー(クルーエルではない)まぁぱっとしませんよ。

 

 

出生した直後に保育器にすぐに入ったらしいです。へその緒が首に絡まって出てきたのですぐに救急搬送だったようです。産婦人科はじものと産婦人科です。

 

 

日赤の大きな病院通いのフラグが立っていました。賛同を通った時に羊水も少し飲んでしまっていたらしく、その影響が右の脳みそに出ていた模様。CT?レントゲンだったかな?脳の写真を撮ったら傷が少しあるような形跡があり、脳波を定期的に取るために小学4年くらいまでかな?日赤の大きな病院に年一回のペースで通っていました。

 

 

幼稚園では、入園しょっぱなからヤマザキといういじめてきたやつの記憶があります。最初はおとなしくしていたんですが、ぶちきれてやり返しすぎてなんでか保母さんに俺が怒られていじめっ子のレッテルを貼らるというスタートだったのを覚えています。腹いせにそいつを苛め続けてとうとう引越しさせたのかな?

 

年中に上がるとそいつはいなくなっていました。ざまみろ(笑)

 

なんか檜原村で遭遇した詐欺師もヤマザキだったような・・・

 

ヤマザキ運がないのかな?俺・・・

 

 

なんかやらかしたな~なんていうことは一回幼稚園がつまらなくて、途中で家に帰ったことがありました。この時はお母さんもびっくり(笑)

 

家が幼稚園に近くバス通いができないということが当時の俺はストレスだったようで?一旦帰ってしまえば幼稚園バスで迎えに来てくれるだろうと思い自ら帰宅をしました。なんかいまお思うと覇王色の覇気の素質あったんぢゃね?的なやつだったかもしれません(笑)

 

 

結果、幼稚園バスのお出迎えにて幼稚園に戻り、副園長先生にめちゃくちゃ怒られるも、幼稚園バスに乗れたという満足感と優越感のためにフルシカトをしていたのはなんとなく記憶にあります。

 

でもこの頃から家との折り合いは悪かったような記憶が有り、なんか家で喧嘩とかすると近くの駐車場に行ってすねていました。。家の居心地の悪さはなんとなく感じてはいたんだなと思い当たるフシがあります。この頃からオヤジのタバコ臭い家が嫌いでした。子供だからな・・・

 

そのほか俺の側面として、ファミリーコンピューターを買ってきたオヤジが夜な夜なスーパーマリオをプレイしていることに気づいていました。最初はBダッシュしか知らず、1-1の最初のクリボーにやられてばかりでないていました。

 

 

Aジャンプを覚えたのはそのだいぶ後になりました(笑)

 

 

小学1~4年まで 地元のゲーセンに通うゲーム少年な一面も

 

 

もともと肥満児気味だったけどそれらがかなり顕著になってきたのが小学一年生から二年生の時で45キロくらいありました(笑)

 

確か小学校一年生くらいだったか、それよりも前か。

 

地元のヨーカドーの屋上にゲーム筐体が置いてあって、そこでスト2が稼働していました。地元の不良たちにいじめられながら、カツアゲにも多少されながらもスト2をやりに時間があったら200円を握り締めて通っていました。ワンプレイ50円の時代でした。

 

ゲームセンターでなんでかいろいろ揉まれました(笑)

 

ゲームと肥満が気になった親が野球をダイエットのために習わせます。結局痩せることはなかったですが(笑)

 

これがきっかけで野球をやるようになります。

 

 

今はもうありませんが町内野球という各町が子供を集めて地域の大人が教えるチームがあり、年に一回夏にそれらの大会があります。狭い公園の中での野球の練習は楽しかったですね。何より地域の指導者が好きでした。

 

 

しかし低学年ということ、高学年にもっとうまい人がいたことでレギュラーには到底なれず、同年代の子たちと一緒に試合とか出来たらいいなって考えるようになっていました。

 

 

学校生活は担任に豪快な人がいてその人のいうことは聞いていました。友達の家に行くとかもちょいちょい始まります。

 

特に問題があったことはなく、お礼状の問題児が存在したということ以外楽しい学校生活でした(笑)

 

学級に何人かは転勤族という子はいて、入学して半年とかでいなくなってしまう子がいましたので少し複雑でした。馴染んできた頃にまたリセットされてしまうことは悲しいな~なんて思うこともほんの少しありました。

 

生き物係とか漫才チームとか歌合戦とか、小学校は楽しかった。一貫してこの時から算数の成績は悪かったですヽ(´Д`;)ノ理数系の属性はなかったんですね、今思えば

 

学校は4年生までは楽しかったです。この時は体罰が普通に容認されている時代ですので殴られるということはけっこうありました。問題は高学年の時の担任が死ぬほど嫌いということでした(^_^;)

 

そして小学四年生になった時に、小学校のジュニアスポーツチームに所属する子がいてその子達が誘ってくれたことがきっかけで地元の小学校の野球チームに入ることになりました。この野球を習うということが後に理不尽なことを俺に見せてくれて歪ませてくれます。

 

この記事を書いている今は日体大の助成金の不正流用だったかな?理事の一声で黒も白になってしまうというようなことをワイドショウーが取り上げています。後に高校時代で書きますが、野球ってこういう理不尽な体質が浸透しているものなんですよね。これが顕著になるのは高校からなんです。レギュラーの先輩が他校の生徒からカツアゲしても弱小の公立校を支えるくらいに野球が上手いから見逃されるというようなものと性質が似ています。

 

 

話は小学4年の小学校スポーツ団の野球にもどり、この誘われてこのチームに入ると機会に恵まれ始めて生き生きし始めます。学年ごとにチームが組まれていたので試合にちゃんと出れたり、バッティングの練習も町内野球のときよりも長く、校庭を使うので思いっきりかっ飛ばしても良かったので野球が楽しくなりました。

 

 

この時、町内野球でレギュラーになるということが目的と目標でこのチームに入ったんです。ここで上手くなって町内野球に戻るということを常に考えていました。でも後々、この小学校チームのの監督からはこっちに専念しろと言われて葛藤しました。

 

最初の俺の目的は譲れず、結果的には町内野球にも行きました。日本のスポーツの事情のダメなところしては、アメリカのように掛け持ちがダメなんですよ。別にいろいろ試していいと思えるものがあってからそこに決めればいいと思うんですよ。

 

 

所属はひとつ、そこをやめたら裏切り者?くらいに怒られる。なんか就職と転職の事情に似ていますよね?無料お試しっていうものがこういう部活とかにすらないってのが俺が感じる違和感ですね。

 

 

また、小学校ではかなりのゲーム好きでした。スーパーファミコンが発売されたことにより、マリオカート、マリオワールド、ロックマン、ストリートファイター2などのアーケードゲームが家庭用で遊べるようになり、連打が得意だったので、DragonBallZの対戦格闘ゲームでは、連射機を使う友達に負けないという連射速度を持っていました。

 

 

カメハメハとビックバンアタックとかがかちあった場合、ボタン連打で連打回数の低いほうが競り負けて大ダメージを喰らうっていうゲームがあったんです。

 

連射機とほぼ同じ連写ができるっていうことでぶいぶい言わせていました。タイトルが思い出せませんね。メテオスマッシュがあるタイトルなんですけどね。

 

 

小学校高学年・・・担任が嫌いでしかなくてぐずつき始める

 

 

 

高学年では担任との折り合いが合いません、むしろ付ける気が全くなかったです。印象に残っているのは、朝礼の時だったかな?多目的ホールっていう大きな部屋があり、そこで何頭の集会をしていたんです。

 

 

 

俺は列の最後のほうだったんですけど、近くの女の子が急に倒れたんです。ビクビク痙攣していて、それに気づいて振り返ったときには既に倒れていました。急いで先生に周りの友達とかとギャーギャー騒いで保健室まで運びました。

 

 

その後、担任は

 

 

 

「島田くんは体が大きくて力があるんだから倒れそうになったら受け止めてあげなくちゃダメだよ」

 

 

といわれ、本気で愛想を尽かして何も行くことをきかなくなりました。

 

 

あのさ、小学高学年でさ、そんな誰かが倒れそうな気配が分かるかっつーの(`・ω・´)

 

 

何かとこの担任は突っかかってくるのが嫌いでしたね。

 

 

体育の幅跳びで着地した時に右膝が痛くて休みたいって言ったら仮病と言われ、医者に行ったら内側の人体を部分断裂していたということがありました。ほんとにムカつく奴だったんですよね。37になった今でもなんで覚えてるのかがわからないくらいにムカついてて覚えているんでしょうね(笑)

 

 

野球の方も順調に行き始めて、4年生の時は体力がなく、一日で2試合やるダブルヘッダーにはついていけなくて途中で疲れたから俺が動けないから試合は市内とか言い出す始末・・・それで試合終了とかになったりしていました・・・

 

 

野球をしていた時はキャッチャーだったんですけど、ずっと座っていて楽そうだったからキャッチャーを仕方なくやったという経緯があります。(ほんとはピッチャーが良かった)

 

しかし、内野ゴロの都度、一塁に走らないといけないという過酷なポジションということを知りました。肥満児だった俺には走るということが、もっと詳しく言うと、座ってる状態からすぐに立ち上がり、バッターが打ったら一塁に走るということを最低限27個のアウト分+ヒットが打たれたり、内野安打になったりしたらその分も加算されるという本数走るということができなかったんです。

 

 

でも高学年になり、体力もそれなりについて一試合、ダブルヘッダーもできるようになりました。これはこれで進歩です。そしてかならずキャッチャーフライが取れません(笑)これは正直小学生には難しいいものです。目をつむってしまうので、6年生になって「しばらく経ってからいきなり取れたことがきっかけでキャッチャーフライも取れるようになっていきました。

 

小学校の初夏らへんの時にふと思ったことがあり、コンスタントに大会にでは3位には入っていたりとそこそこ強いチームではありました。しかし優勝まではどうしてもいけないということが心残りでした。

 

6年生の秋大会にようやく優勝をすることができ、小学校野球でやり残したことはなくなりました。それで燃え尽きたのか、最後の大会は3位でした。

 

 

 

 

 

中学時代~俺の中での恩師に出会う

 

 

中学に進学して、小学野球とは全然別の厳しい世界を知ります。

 

体験入部の期間が有り、練習に遅れて参加して怒られるということを初日にやらかす始末。ひとつの部活に行ったらそこだけしか行けないっていう雰囲気がありました。

 

野球は日本においてメジャーなスポーツですが、徐々に始めにくいという特徴があります。中学から始めようとしても入部はけっこう断られるし、初心者が興味を持ってもそこに合わせて進む練習ではないのですぐにやめてしまうんですね。

 

でも中学の練習は俺の嫌いな走り込みがめちゃめちゃ多く嫌いでした。試合に出れるのは最高学年になってから。ボール拾いの日々。でも先輩がめちゃめちゃ各世代で強かったんですよね、当時俺が通っていた中学は。

 

 

今思えば中学時代が無敵で楽しかった。

 

 

いろいろな不良や同期のグレたやつとか価値観の幅を身につけれた時代でした。特に苦痛だったのは野球部の顧問の先生が数学を担当していたのでそれが嫌でした。もう数学に関しては積んでいたので部分積分とか演習率を表すπ?や証明は全くできず、高校進学は絶望でした。

 

 

英語の授業も始まり、英語の歌を歌うというのを授業の始めにするんですけどこれがほんとに嫌でしたね。なんで生徒が歌いたいとか聞きたい歌を流さないのか?という疑問がわきました。

 

 

 

中学時代に全国大会に出る

 

 

中学に入り、ほぼ部活だけの日々でした。一つ年上の世代の先輩はめちゃくちゃ強く、関東大会まで行きました。それをみていた俺らの世代は必然的に全国大会に出るという暗黙の目標を共有するようになりました。

 

しかし、一番の問題は俺のキャッチャーとしての肩の弱さ。セカンドまでノーバウンドで投げられないということ。関東大会もワンバウンドで投げるというのが嫌で、でもノーバウンドで投げられない。これがもどかしい日々でした。

 

バッティングは好きだったのでそこそこ打ちましたし、新聞にも乗ったから悔いはないです。高校をちゃんと選んでおけばよかったと思いますね。振り返ると。

 

 

学業面は崩壊していました。

 

 

数学がイヤでイヤで仕方ない。高校へは全国大会に出たという推薦で行く以外に方法はなかったんです。あとは英語も全然できませんでした。

 

 

国数英は全滅。ここらへんから道は狭まっていきます。

 

 

全国大会では一回戦で負けてしまいました。セカンドにノーバウンドで投げるという色気を出しすぎましたね。

 

 

中学生の時のゲーム事情は、いつくらいかネオジオに手を出し始めていました。それとネオジオフリークの熱狂的な読者でもあった。お年玉を溜めに溜めてようやくあのお弁当箱を買うという(ファンの間ではネオジオROM版のことを指します)ことをしていました。ネオジオCDもありましたが、申のお手玉にぶちきれて買いました。ロード時間のなさに感動していました。

 

 

悪友にそそのかされてネオジオCDとCDZを交換してしまうということの甘さも体験しました。・゚・(ノД`)・゚・。

 

 

推薦の話としては一校だけ静岡の高校からお誘いが来ていました。パンフレットをもらいましたが見学の期間の期限が切れていました。それとやはり高校は家から通って欲しいということでその話は断念し、地元の高校に行きました。これが少しうかつな選択でしたね。自分の属性や個性が如実に出てくるということに直面します。

 

 

 

 

 

高校時代は暗黒

 

 

かろうじて推薦で入学ができました。公立の高校がですがガラが悪いことで少し有名な時代でした。入試に自分の名前がかければ受かると言われるくらいに偏差値は低い学校でした。しかし野球は強く、甲子園にも一度は出たことがる公立校の中では唯一私立に対抗しうることができる学校とも言われていました。

 

 

高校ならではのいろいろな理不尽を体験しましたし自分の致命的なダメさにも直面しました

 

 

生活面はグラウンドと家の往復だけ。

 

 

一年の6月くらいだったかな?まだ中学上がりの高校公式に体が馴染めていないので本格的な練習には参加させてもらえない時期、2個年上の遊撃手の先輩がノックで不調、気が抜けているということで監督から干され、それでもノックしてくださいの懇願という高校野球あるあるの光景を目にします。

 

 

その時の監督の一言が衝撃で、

 

 

「見られるとまずいから裏に来い」

 

 

と言ってひたすら投げ飛ばす、平手打ちのリンチ状態・・・

 

 

これに高校入学魔もない俺は後悔をしていた・・・

 

 

部活の顧問も教員が担当するのが公立高校ですが、スポーツの指導者以前に教員が

 

 

「見られるとまずいから裏に来い」

 

と言って生徒を虐待ともリンチとも取れる投げ飛ばすと平手打ち浴びせまくりでしょ?

 

 

歪んでるんだよな・・・

 

 

当時の2個上の先輩たちはめちゃくちゃ強く、そんじょそこらの私立には簡単に買ってしまうくらいに公立高校にしては強いチーム。そのチームの主軸を担う、期待されている先輩だったから仕方ないかもしれません。プロに行ってもおかしくないって監督も言ってたらね。

 

 

その期待の裏返しなんだろうけど、それがたまらなく嫌いだった。これがもっとこじれるのはこの先輩が引退したあとの秋だった。

 

 

 

生活面、特に学業面はというと散々すぎるもの。中学時代はほんとに何も授業を聞いてもいなくて、ただ暇を潰しているのと同じ。中学の復習なんてしてもらってもできない、宿題なんて出されたところでそんな余力はない。練習で疲れているし、自転車で30分かかる。これは当時の高校時代の俺の体力でチャリをぶっ飛ばしての時間。

 

しかも練習の時間のほうが寝ている時間よりも長いという・・・

 

 

宿題をなんとかやっても正解なんてできない。基本的に高校時代の成績は数学が著しく悪く、一桁の点数保ほうが多かった。期末テストは30点台を奇跡的にキープした。よくできた部類だ。数学で40点を取れたことは全くない。

 

 

 

2個上の尊敬できる先輩が引退し、腐った一個上の代になる

 

 

この一年上がほんとに嫌だった。同情はしない。

 

 

甲子園に行った代と入れ替わりで入学をしてきた人たちで人数も多かった。しかし多くの部員が入部して多くの部員が去っていった。そして期待に対してそぐわなかった世代だったということでその反動で干された。だから期待をして欲しくてもしてもらえないから少し腐ってた。それに俺の代がほとんどのレギュラーになり、3年が補欠になっていたのである意味かわいそうな代だった。

 

競争が激しいから仕方ないけど。よくサボる奴らでもあったし。

 

 

 

 

高校野球あるある~監督の矛盾

 

 

一個上の世代は生活態度も悪いし、勉強の成績も赤店をよく取る人が多かった。それに対していけないということで監督は

 

 

「赤点取った奴は練習もレギュラーにもしないからな!」

 

 

ということをある日の練習の終わりで公言した。

 

 

仲が悪かった俺の世代はなんでか知らなかったけど少し沸いた(笑)

 

 

ちゃんと赤点を取らなければあいつらがでかいツラをしないし、俺らの世代まで待たなくても俺らの天下だ!っていうなんか、そう言うくうきになってた。すると俺らの世代は期末や中間で平均10点くらいのアベレージをあげるということをした。

 

それに沸いたうちのひとりは俺だということも言うまでもなく、赤点を余裕で取らなかった。数学は40点をとり、英語や国語は50点台をマークした。これはほんとに歴史的なことだった。(俺にとってはね)

 

 

中学時代の恩師の監督はこういうことは絶対に平等でそういうことはしなかった。

 

 

そこが好きなところだったし、走り込みもみんなと同じようにできるまでにがんばれた。実際に数学で赤点とると練習参加はできなかったしね。

 

 

後々高校の監督にも言われたけど「中学時代の先生のほうが良ければそっちに行け!」って言われたし、あっちも比べ続けていた事がバレていたようだ。

 

 

もっとひどい事件というか、俺らの世代のやる気をなくさせたのは、一個上の先輩でチームの4番が他校の生徒からカツアゲしてそれがバレたっていうことが起きた。それは決定的で、そいつは体育教官室に呼び出しをくらった。

 

 

とうという退学だとか座ついていたりもした。(そいつが嫌いだった俺らの代はね)

 

 

でも後日しれっと解放され、何一日の謹慎で住んだようだ。しかもしばらくは大人しかったけどすぐに元に戻った(笑)

 

 

こういうことがあって、わかっていたことを再確認した。野球部なんだから野球さえ上手ければいいということ。

 

 

その後度々俺はレギュラーになれたりなれなかったりだった。

 

 

監督の言ってることとは嫌いで折り合いが悪く、干される形で使われなくなり、夏の大会はベンチにこそ入ったがチャンスはなかった。

 

 

私立を危うく倒せるというところまで追い詰めるも力尽きて逆転負けで二度目の夏を終える。

 

正直言って嫌いな世代がいなくなったことで心の中ではガッツポーズをしていた(笑)

 

 

なんとなく自分の居場所というか、自分がここにフィットできなくなっているということに気づき始めてもいた時期だった。

 

「ここ」というのは野球部もそうだし、学校の教室から何から何までっていうレベルだった。

 

 

 

せっかく自分の世代になったのにスキー合宿でまさかの右肩を脱臼してしまう

 

 

自分たちの世代になり、同年代のキャッチャーのほうが頭一つ出ていたのでレギュラーには慣れていなかった。でもそれなりにいい感触ではあったようで、バッティングさえ治ればというところで自分たちの世代で過ごす初めての冬に入った。

 

 

おだやかになっていたので、スキー合宿というレクリエーションもあり、それに参加しない人間は強制的に年賀状のバイトに駆り出された。しかもその稼いだお金は部費にするということで。なんとなくそれが嫌でスキー合宿でスノーボードをした。好奇心が勝ってしまったことを後悔することになる。

 

 

この合宿には嫌いな柔道部員がいて何かと俺に突っかかってくる孤独なやつだった。後に女子更衣室を盗撮するというものすごいことをしたやつで、これらを体育教官室と柔道部の顧問がもみ消すというものすごいことに俺を出くわさしてくれた。こういう理不尽はまだ表面に出てこない時代だった。

 

 

 

スノボー度でジャンプをしていた時にこけて前方亜脱臼してしまい、そのまま俺はほされて高校野球を終えた。自業自得ではあった。

 

 

 

高校から大学進学をするにも野球という切り札はなく、俺の代で初めて始まったAO入試で北海道の大学に行くということになる。

 

 

やさぐれた高校時代で思ったことと今だに自分のポリシーになっていること

 

 

某強豪校に練習試合に行ったとき、俺好みの毒を放つ奴がいた。トレーニング室にずっと寝転んでいる奴で、なんか俺に声をかけてきた。第一声は覚えていないけど、お前レギュラー干されたの?的な失礼なやつだった(笑)

 

 

でも当たってたし、なんか自分もこのチームに居場所がなかったのでコイツにも親近感が沸いた。そいつの話を聞いていくと、もうここにいる理由は特待生として入学したから、野球部をやめたら実費の請求が言ってしまうからやめたくてもやめられないっていう内容の話だ。

 

 

この強豪校は普通に入れる野球部ではなく、この学校からぜひうちに来てくれとラブコールを送られるか、セクションというプロの入団テストのようなものに受からないと入部できない。強豪や有名私立の野球部はこういうとこが普通。

 

 

和歌山の智弁和歌山の方だったかな?あそこは30人以上は入部させず、練習の効率が落ちるからという理由でよほどの有望な選手以外は取らないことで有名だ。茨城の常総学園も3年計画と言って、有望な世代だけを入部させ、その世代が3年生になったとき甲子園での上位を狙って計画的に練習をしていくということをしてることで有名だ。

 

今は既に他界されてしまっている故木内監督という人の方法だ。

 

 

僕がウェイト室で話してる奴もその強豪私立になんと推薦と特待生で来たが、二年生の秋、この高校の監督に戦力外通告をされてしまい、それ以来ずっとこのウェイト室で時間を潰しているそうだ。このことにやはり高校の現役の時から疑問に思っていることがある。

 

 

日本学生野球憲章っていうものを高校生から見ていてずっと疑問に思っていることがあるし、高校野球界はこれらを無視しているのでは?と断定に近い形で疑ってる。

 

 

>国民が等しく教育を受ける権利をもつことは憲法が保障するところであり、学生野球は、この権利を実現すべき学校教育の一環として位置づけられる。この意味で、学生野球は経済的な対価を求めず、心と身体を鍛える場である。
第2条(学生野球の基本原理)
学生野球における基本原理は次のとおりとする。

学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする。

 

学生野球は、学生野球、野球部または部員を政治的あるいは商業的に利用しない。
学生野球は、一切の暴力を排除し、いかなる形の差別をも認めない。

公益財団法人 日本高等学校野球連盟 日本学生野球憲章より抜粋

 

 

 

一番気になるところを抜粋しました。このように特待生を引っ張ってきて競争させてプロでもないのに戦力外通告というのは正直この学生野球憲章からはかけ離れているように思います。あとは経済的なしようはしてはいけないとはあるものの、生徒の獲得や学校経営という経済活動には使われていると思います。仕方ないことですけど。

 

 

このウェイト室のやつは教育の一環でしているはずの野球をやるという機会を剥奪されてしまった。これってダメなんでしょ?って思いつつ、こいつが俺が通う学校に来ればレギュラーは間違いないと思うけどね。

 

何が気の毒かといえば、この戦力外通告は親には言えないでいること、部を辞めたいけどそうすると実費の負担が親に言ってしまうから野球部から籍をなくせない。野球留学をしに来て厳しい現実になってしまったけど、こういう高校生を放置できる学校と野球部ってダメだなって思ってる。

 

 

機会を自ら価値取りに行くという放置型の教育よりは機会を与えてくれて、かつそれらは無料お試しな感じの方がいいって俺は思うようになった。

 

 

後この学校の寮の飯はまずいらしく(笑)カレー風味の肉という献立が一番嫌いだって言っていた・・・

 

 

カレー風味ならカレー出せばいいじゃんって思う・・・

 

 

 

自分のチームの監督の矛盾とか、こういう強豪校に試合に行っての出会いから、なんとなくこういった体制が嫌いになっていきました。言ってることは立派だけどやってることが全く言ってることにそぐわないくせに威張ってるっていう感じのこういうやつですよ。審判が護身認めないとか含めていろいろね。

 

 

体育会系がさっぱり嫌いになりました。

 

 

こういった矛盾を嫌うということが俺のポリシーになりました。全く生きづらくなったもんだよね・・・

 

 

 

そして野球のない生活を夢見つつもなんでか知りませんが野球に固執してしまいます。

 

 

引退後は新しくできたインターネット喫茶に通い、北海道の大学で面白い資格が取れる大学を見つけてそこへAO入試制度を使って入学します。

 

引退したあとに監督に「お前大学はどうするんだ?」ときかれ、

 

「北海道のA学園大学に受かりました!」

 

というと

 

「なんだそれ?」

 

と言われたことが今だに頭から離れないんです。レギュラーの奴らは全部コネで大学に行ったのにおれは自力で探して自力で受かったわけで。そこんとこだけわかって欲しかったけどこんなものかということで、恩師というよりは反面教師という名の恩師と割り切りました。

 

 

野球をこの時点でやめてちゃんと手術して直していればもっと良かったのに・・・という後悔は未だにあります。

 

 

 

 

大学生活も暗黒・・・野球を辞めるという決断をしてから自分探しがはじまる

 

 

 

大学はAO入試以外に道はなく、これに落ちたらテキトーに働くつもりでいました。しかし運良く受かりました。でも今思えば、生徒の競争率が1.0を切っていた大学だったので別に受かったかもしれま線。高校生で、なれないインターネットで大学を探して、初めて使うワードで文書を作成して誤字脱字だらけの課題を全て訂正して面接では俺と向き合ってくれたあの教授は恩人であると思います。

 

下手な所もいいとこも全てひっくるめて俺のことを見ていてくれた人って思います。

 

 

こうして北海道の大学へ入学することができました。

 

 

しかし、大学に入学して野球部に入り、練習初日でセカンドに送球したら脱臼した肩が外れて入学した年の夏に手術をします。退院しても怪我をする前のようには治らず、大学の二年で野球をやめます。

 

辞めるまでの二年間は時間の無駄だなって思っていました。でも野球をやめることへの恐怖が先立ってしまい、やめれませんでした。野球をやめたら何をしたらいいのかわからないからこその葛藤だったかもしれません。大学二年の秋、とうとう監督に辞めるということを言いました。

 

これが人生で初めて何かあを辞めるということを言った経験でした。思いのほかあっさりやめれて安心しました。部長さんが「大学は生き方を探すところだからな」って言ってくれたことがとても嬉しかったです。何かを辞めるということは悪という価値観がほんの少しだけほころんだ瞬間でもありました。

 

入部して早々にやめていった人たちがいましたが、その人たちは自分の本音にしょうじきになっていて医師表示ができる人たちだなっていうことを痛感しました。

 

高校で野球をやめておけば良かったということを公開していました。野球のことだけしか知らず、グラウンドと家の往復。わざわざアパートまで借りても生活が変わらないっていうことが虚しく感じていた時期でもありました。

 

 

高校時代にバンドをしていた人がいましたが、その人が自分と真逆過ぎて羨ましかったんです。あと帰宅部に在籍してバイト漬けの友達もいました。その人は単純にお金が欲しいっていう理由でばいとをしていましたが、そのことがなんか大人だなって俺は思っていました。野球だけを出来ていればそれでよかった。

 

でも野球という狭い価値観の中でしか理解できず、突然のその野球がなくなったことで狭い価値の中だけではいられなくなった。

 

 

大学二年の秋、突然やることがなくなってしまってほんとに困った。でも野球をしていたくない。ボールを投げられないことがたまらなく苦痛だったから。

 

 

野球を辞めると同時にじつは自分と似通ったハミ出し感を持つ友人がいました。そいつはほんとにかっこよくて、ストリートミュージシャンでギターと歌が上手い奴でした。

 

 

野球をやめてからこの友人と急に接近するようになります。

 

 

 

野球をやめてからの自分探し~なんでかしらないけど演劇部に入る(笑)

 

 

 

野球をやめてからは気持ちが軽くなったんです。自分が通う大学にはなんでか馴染めないのでほかの大学の人たちとの接点を求めました。そしてどうしてもきになっていたそいつに野球をやめたことを話して現状をどうかしたいっていうことを言うと、ギターを教えてくれたり、4万でギターを売ってくれたり、演劇部に入れてくれたりと、いろいろ初めてのことをしてくれました。

 

 

初めて役者をしたり、舞台を作ってみたり、感情解放ということをしてみたり、漫画のすごいよマサルさんを舞台でやってまちゃひこ役をしてみたり。刺激的な時間を過ごしました。

 

 

となりの大学の人たちの新しい価値観に触れ、体育会系とは真逆なことをすることで自分の幅が広がっていく気がして楽しかったです。

 

 

何を欲しているかはわかりませんが、とにかく野球に変わる何かを探していました。

 

 

大学三年になる前の三月、半ば強引にその演劇をやめてゼミとどこで見たかはわからないけど、野外活動のボランティアリーダーの募集がありそこに行きました。

 

 

 

大学3年から4年までは野外活動に全力を尽くす

 

 

この頃からボランティアに行くようになる。一回だけ居酒屋のバイトに応募したんですが落ちました。落ちるはずのないバイトだと言われていましたがそれに落ちました(笑)

 

働きたくないオーラがめちゃくちゃ出ていたんでしょうね。

 

 

多少のお金がもらえてそれなりに楽しいことを探していました。かつ北海道に来たのだから北海道を満喫できることということをさがしてので、野外活動のグループリーダーという有償ボランティアはぴったりでした。

 

毎週末はこの野外活動に顔を出していました。

 

 

野球に変わるものを探していた僕はこれに没頭しました。バイトから逃げるように(笑)

 

 

一日辺り3000円くらいの謝礼のようなものがもらえて、それを20万くらいためたのは地味に地震になりました。

 

 

大学4年の3月までこれをやりました。一応やり通したことです。大学の一年からやっておけば・・・・

 

大学生活はほぼアパートにいて寝転がって息だけしてた感じです。何かしら理由を作って外に行かないと自分は何もしないようになってしまうので、なんでもいいから「~しないといけない理由をつくる」ということをよくしていました。

 

 

少しおませになってギターを買って、江別?だったかな。そこに洋楽が好きなおじさんがいてそこにギターを習いに行ったり、その人のバンドのライブにいったり。とにかくなんでもいいから野球以外の何かを探すのに必死になった大学生活でした。

 

 

俺にギターと演劇という新しい風を吹き込んでくれた友達は、大学を一緒に卒業することはできず、一年留年して卒業しました。親父さんが定年して学費を払うことができなくなったのでバイトをして学費を補って卒業するという尊敬に当たりする奴でした。FBアカウントを解約した今、どこで何やってるのかはわかりません。どっかでどぶろく作ってんのかな?位のことを考えています。

 

 

 

卒業が近くなってからは、大学を卒業する前にダブルスクールでホームヘルパー1級を取っていたので卒業と同時に介護の職に就きます。地元に帰ることはせずに北海道に残り、卒業後は3年は暮らします。

 

 

社会人一年目から引きこもりがちにならざるを得ない散々な目にあいますし、これらが今の僕の価値観を決定的に固めたと思います。

 

 

 

 

 

大卒で入社した会社は3ヶ月でやめる。

 

 

さて、今は時間が過ぎたので忘れ去られています。

 

コムスン事件という物をご存知でしょうか?

 

 

俺が大学をでて社会人一発目で入社した会社がコムスンという会社でした。当時派遣会社の派遣社員というものがでてきていて、正社員としての就職ができない「就職氷河期」という時代の真っ最中でした。

 

大学の同期の中の何人かは大学院に進み、就職難が過ぎてから就活したいっていう人もいるほどでした。世間の風潮は年功序列を完全に否定し、実力重視に変わりつつあるような時代でした。

 

 

ドラマでは「ハケンの品格」が大ヒットし、正社員のハードルが高くなった時でした。

 

 

そんな中、大学を卒料する2月に面接をして、コムスン事件という大臣権を起こした会社に入社します。その当時既に最高裁での一審に敗訴し、控訴中でした。なんというか、世間を見るセンスがなかったんでしょうね。

 

就職のために自分を理解するSPI自己分析とかやりましたが、なんか決めつけって感じがして嫌でした。そもそも選択肢の中に自分が選びたいものがなかったんですね。だからなんか選ばされて決められる感じが嫌でした。でも自分で考えるのがめんどくさいので誰かに決めてもらえると楽になる気がした自分もいました。今の自分の脳みそをこの頃の俺に載せ替えたいと何度思ったことか。・゚・(ノД`)・゚・。

 

 

絶対に疑うべきは募集期限を過ぎていたのに応募して面接して受かってしまったということが一番おかしい会社でした(笑)このあと新卒の3ヶ月で社会の荒波を越えたトラウマを抱えてしまうことになります。このトラウマがあったからこそ今の俺があるんですけどね

 

 

 

 

大卒の研修は代々木オリンピックセンター。インストラクターという大卒研修の講師に疑問しか出ない

 

 

 

駆け足で採用が決まり、大学の卒業式が終わるやいなや東京に飛びます。代々木のオリンピックセンターで研修という名の洗脳が始まります。

 

未だにぼんやりおぼていることはとにかくお客さんを満足させる、利益を会社にあげる、会社に貢献するというということのサイクルを作るっていうことだけを刷り込まれました。なかなかの人数の人が研修途中に「話がちがう!」っていう感じで去って行きました。マッ金っ金の頭の女の子が出て行ったことは未だに覚えています(笑)

 

 

それと「ハローコムスン」というキャッチフレーズを作ったということを自称していたおっさんも出てきました。この人は腰か足の骨を複雑骨折して病院に入院中に「ハローコムスン」というキャッチフレーズを思いついたとか言っていました。

 

 

あとはどうでもいい名刺の渡し方とかetc・・・

 

 

苦痛だったのは「コムスンの誓い」とかいうのを毎朝言わされるのが嫌でしたね。なんか正社員という立ちを得るために耐えていた当時の自分がなんか馬鹿としか思えません。

 

 

それなりにやり過ごして赴任先の北海道の新しい施設に帰ります。

 

 

 

 

社会の荒波を容赦なく浴びた3ヶ月間

 

 

 

 

そしてちょうど当時は裁判の最中で、最高裁の二審位で負けて、裁判は負けが濃厚な時代でした。

 

 

そして新しくオープンするはずの施設は次々とオープンの申請が通らず、スタッフがもともと務めるはずだった場所とは違うところへ派遣されてしまい、結構空気は悪かったです。

 

 

そんな中北海道の札幌ドームの近く(だった気がする)の施設にオープニングスタッフとして配属された僕は早速世間の荒波に揉まれます

 

 

・3月の研修分の給料が入ってこない

・周りの先輩の交通費、夜勤手当が入っていない

・資格手当や役職手当が入っていない

などのトラブルが発生する

 

 

新規オープンの開所式とかでは見知らぬお偉方をもてなすというストレスフルな時間を過ごしました。ちなみに六本木ヒルズに当時のコムスンの本社の本体はありました。そこからきたただもてなされるだけの奴らをもてなすのも疲れましたね。確か一人だけそれがいて、あとはエリアマネージャーとかでした。

 

 

 

 

 

2007年 5月 ブチ切れる

 

人事部に何故か僕が未払分の給料を請求するという栄えある業務を担当することになるが、人事部から驚愕の一言でブチ切れる。5/25日という日付もなんでか鮮明に覚えてる(笑)

 

 

僕 「お疲れ様です。未払分の給料と交通費手当と僕の大卒研修の給料はいつ払われますか?」

人事部  「来月夜勤は言ったら稼げるよ」(ほんとにこのやりとりはありましたよ(笑))

!?(゜д゜)

 

その瞬間に僕は電話を切り、ホーム長に

 

俺辞めるわ

 

という即断即決をする。

 

この時点で実は実家に相談をしていました。でもとにかく勤めた会社なんだから努めなさいの一辺倒で、やはり実家との折り合いは悪かったです。こっちのことをもっとわかって欲しかったですけど。これも今につながる片鱗でした。今思えば。

 

 

 

2007年 6月 新卒を3ヶ月で辞める

 

 

今は亡き、介護大手コムスンを3ヶ月で辞める。新卒で経験した社会の荒波(3ヶ月)は正直耐え難かったですし、今の俺が正社員にならないっていうことを貫いている要因です。(37歳になったので正社員にはもうなれません(笑)なりたくもないですけどね)

 

新卒一発目の会社で経験した社会の荒波を端的にまとめます。

 

・給料未払

・人事部、並びに会社組織の裏切り

・大卒の僕を引き止めに来たエリアマネージャーという人間は実は僕が辞めるよりも2週間早くこの会社を辞めていた

・労働組合ユニオン(当時の社内の組織)はこちらの言い分をもみ消す

 

といった具合です。

 

 

そして俺がやめた月には8人ものスタッフが退職。その中ににはもちろん介護長、副介護長、ホーム長を含む8人が辞めていたことに衝撃でした。

 

大卒の僕を引き留めに来たあのエリアマネージャーもたしか俺が出した履歴書をもってきて「気が変わってしまったのですか?」みたいなことをいっていたんですが、そりゃかわりますよ。

 

 

賃金未払いだもん

 

しかもこいつ俺よりも2週間早くやめやがった(笑)

 

 

世間に背を向けた時でしたね。そりゃ多少すれてもいいくらいのできごとだったと思います。

 

 

この時点で正社員にはならなくていいやって思ってそれが確立しました(笑)

 

 

 

2007年6月~12月まで

 

この会社を辞めたあと、日雇いをフラフラしてスキー場バイトに行きます。この生活サイクルをもっと肯定できればよかったですけど、この時はできませんでした。何かに繋ぐためのつなぎ仕事だって思ってやっていましたがなんにもつながってはいきませんでした。

 

 

特に一ヶ月くらいは何もせずにフラフラしていました。ただ生活をするだけ。一度だけ派遣会社にフィットネスインストラクターをしてみたいっていうことを相談しましたが、なんでか介護の仕事を紹介されてイラついていました(笑)

 

 

自分がしたいことが人からもたらされるなんてありゃしないのに。世間をほんとに知らない奴で、結局人を自分の都合で動かすための駆け引きが上手いやつには勝てませんでした。派遣なんて人突っ込んでナンボなんだから。でもふわふら浮ついていました。

 

この年の上半期は日雇い派遣で教科書販売とか学校の引越しの搬出、搬入とかしていました。いろいろ仕事を経験してから決めてみたいって思っていました。正社員であんなに嫌な思いをした直後でしたので一にだけ割り切って働ける仕組みが気軽で良かった時代です。

 

夏に差し掛かると今はコロナでなくなっていますが、音楽イベントが北海道ではあります。夏はライジングサンロックフェスというものが北海道ではあり、富士ロックフェスの北海道版という感じです。一番やってはいけないバイトという噂はネットではあるものの、好奇心が勝ってこのバイトをしました。

 

野外フェスのバイトはしないほうがいいですね(笑)

 

特に嫌だったのはトイレ問題・・・・・

 

汲み取り式の簡易トイレが開催期間を持たずしていっぱいになり、男子は立ちション、女子専用トイレにしかなくなり、メインいステージ周りのトイレはすべてが使えないという状況。反面、それほどメジャーではないアーティストのステージ周辺のトイレは使えるというなんか変な・・・行き届かないインベントでした。

 

最後の方にはバイトの仮眠用のテントの入口に人糞がもられているという場面に遭遇(仮眠から起きて出ようとしたら目の前にあった(笑))

 

ステージの音量がうるさくて仮眠なんかできませんでした。

いろいろな世代の人達が日雇いに来ていて、英語が喋る人がいました。その人を見てかっこいいな、って思うこともありました。

 

その後、立て続けにドリカムのライブが札幌ドームであり、そこにもバイトで行きました。ステージの設営はとび職の人との共同作業でした。怒号しか飛び交わない何言ってるかわからない現場でしたの二度とやりませんヽ(´Д`;)ノ

 

唯一のラッキーだったことは、人が働いているところでグラサンとマスクをかけてチャリを漕ぎまくっている邪魔なチビがいました。「あいつ邪魔なんだけど・・・(`・ω・´)」とイラつきながらそいつのことを見ていました。しかしリハーサルが始まると・・・!!!!!??????

 

 

その人は吉田美和でした(笑)(ほんとに)

 

 

なんかリラックスしてリハーサルに臨みたいからあんな感じなんだって。そのリハの時はきっかけといて、ステージの照明の切り替えや膜を落としたり、カーテンを引いたりする演出のリハでもあります。これにはびっくりでした・・・

 

 

派遣会社に給料を取りに行ったとき、「いっぱい稼いだね!」って派遣のコーディネーターに言われたけど、結局は介護やってる時の給料と変わらず、やってることや環境を考慮した場合にもうやらないって決意はしました(この派遣会社は現ナマ支給でした)

 

 

いろいろかじったりやっていくうちに「もう二度とやんないことリスト」が蓄積されていきました。

 

23歳、新卒の年には既に転職回数は5回してましたね・・・日雇いだから欠かなくてもいいんですけど。

 

 

 

10月から12月まで交通誘導員の会社を転々とする

 

 

この当時は洞爺湖サミットが北海道で予定されておりその準備で洞爺湖周りの土木工事が急ピッチで進んでいました。環境整備という名の・・・なんでしょう。ただブロックを裏返してまた元に戻すというなんかわからない作業でした。

 

この大手の土建屋と契約している警備会社を引き当てるまでに2つくらいは警備会社を変えました。ほそぼそやっているとこは最初の一日二日は飲み屋のファーストドリンクみたいな感じで仕事がありますが、それ以降は待機というものが多く飼い殺しでした。なので待機がつづくならソッコーで辞めるということを繰り返して安定した仕事がある警備会社に行けました。

 

とはいえ、朝の5時くらいからピックアップをしてもらい、現場には6:30くらい到着だったような気がします。(当時車を持っていませんでした)

 

それでいて夜の8時くらいまで残業が付いたりした時もあって稼げました。中にはお金を貯めて自身のバンドのツアーの費用を貯めているという人もいました。ここいろいろ目的を持っている人たちにめぐり合うことでなんとなく自分は何を目指すのか?っていう自問自答をすることをしました。

 

ここからがさらに長いんですけどね。今のシェアハウスをやるって思うまでに。

 

 

この警備会社を12月中旬でやめ、一度きりの人生なら・・・と思い群馬のスキー場のリゾートバイトに応募します。

 

 

引越し貧乏⇒交通誘導員⇒スキー場バイトというサイクルを25歳10月まで繰り返し、11月から介護に一旦戻ってみようと決意します。

 

 

しかし、介護はグループホーム出て料理が嫌いということもあり、5ヶ月くらいでやめます。この夜勤の時に大学の友達が青年海外協力隊に受かったということをFBで知り、自分も応募したいという思いが募り始めていました。

 

 

この時から短期の仕事がいいとは思っていましたが、雇用期限の定めのない仕事はいずれやめたくなった時に辞めるということを上司に告げるのがだるいと思うようになっていました。それと定時出勤と代謝の仕事や、介護のように夜勤のある仕事はダメだという線引きができました。

 

独身という理由でかならず年末年始は夜勤という理不尽な待遇、2008年は介護報酬の改善があったけど、5夜勤して148000円よりも月給は稼げないという上限も低くいし家を施設の往復ということが納得できなかった。それなら期間の仕事をして、働くと働かないと自分でコントロールして行ったほうが時間もお金もさほど変わらない。

 

変わるのは拘束時間だけ。

 

そう思っていた。

 

 

この年の3月にこの施設をやめて実家に戻ったのだけれども、家の給湯管が破裂して家がお湯びたしになた。それを言ったら母が北海道のアパートまで飛んできてくれた。そのときに仕事を辞めたいといった。もう一旦実家に帰ることにして北海道から引き払ったらいいと背中を押してくれた。

 

 

翌日に辞めるということをサラっと言えた。そもそも入居者との折り合いも悪かったから・・・介護は合わないからやらない。やらないことリストに介護の仕事が追加された。

 

 

 

 

2010年 青年海外協力隊に二度応募するも落選して北海道のボラバイトに行く

 

 

 

ようやく写真が出てきましたね(笑)

 

ちなみに俺の血液型は20歳で肩の脱臼の手術をしるまではO型でした。母子手帳にはちゃんとO型です。でもこの手術をして初めて血液型くつがえってびっくりでした。

 

まぁおいおい書きます。

 

 

26歳の4月に実家に戻ってきてせどりという物を知ります。当時ガラケーでサイトにアクセスして5件までJANコードを入力して価格を見れるやつでやっていました。資金もなく5万くらいしか月の売上で上がりません。別にそれ以上の売上が出て生活できるわけでもなく、母からは「それで仕事になるの?」といつも言われていて心苦しかった。それでいて働きたいわけではない。

 

履歴書を書くのが嫌になっていてました。

 

その時に青年海外協力隊に応募するといい、春、秋の応募をしました。結果は両方とも落選しました。貯金もそこをつき初めて働きに行かないといけない状態になりました。

 

 

二度目の落選では「健康上の理由により」と書かれていてこれに疑問を持ち、応募番号と氏名など全ての情報を開示して聞いたことは血液型のことでした。

 

 

JICAの健康センターの回答は

 

 

「輸血リスクのある人を派遣することは出来にない」という回答でした。

 

 

もうちど写真を掲載しますが俺の血液がはB亜型です。

 

 

 

なんでかといいますと、一回目の健康診断では、というか人生の中で血液型の判定をABO判定でしてきましたが、実は全て判定不能という結果が出ています。というのもオヤジ方、島田家の男の家計の方では実は血液型が判定不能のままなんです。おじいちゃん、親父、共に判定不能です。ナメック星人か(`・ω・´)!!て思うくらいに判定不能です。

 

 

でもABO判定というものは毎年精度を高めるように改善されているので今は出るかもしれませんけど・・・

 

二度目の応募の際には、献血に行って血液証明書をだしてもらいました。

 

話が前後してしまうんですが、一度目の応募の結果が健康上の理由、二度目の応募の結果が技術不適合という結果でした。

 

 

そこまでしても、青年海外協力隊に行くことはできませんでした。

 

 

 

嘘を言ってるような感じかもしれませんが、本当に判定不能なんですよね、ワタクシ。

 

・゚・(ノД`)・゚・。

 

まぁ、この判定不能の健康診断書を受け取ったJICAはビビりましたよね(笑)後必須の英語力ですけどこれはゴミのレベル。ニートの8ヶ月間、図書館に俺はこもって勉強していたんですけどね。それでもこのざまでしたから・・・

 

ほんとにダメなやつ・・

 

 

そして落選してこの埋め合わせをするべく、ワーキングホリデーに行くことを考え始めます。協力隊の人気は2年なので、海外で二年いれば、このショックを埋められると勝手に思ったんです。二度目の応募の際にフィリピンにボランティアをしに行き、ボランティア歴をわざわざ作りましたがダメで、その影響で貯金はなくなりました。

 

 

このあとは北海道の稚内へボラバイトをしました。酪農でしたが絶対に自分にはできない世界と挫折して3ヶ月で諦めました。

 

 

2011年の4月に実家に帰り、5月にバックパッカーの友達から潜りの仕事の話を聞いてフランスに渡ります。一ヶ月後に帰国してキャンプ場の監理人、コンビニのクレカの勧誘のスポット派遣を経てオーストラリアワーキングホリデーに2011年10月16日に渡豪します。

 

 

 

 

 

2011年10月~2013年9/6帰国。およそ2年に及ぶワーキングホリデー。生き方を勉強しに行きました。

 

 

当時の英語力はTOEIC330点、正直言ってネイティブの会話なんて聞いたこともしたこともない。そのくせネイティブの環境にしか身を置きたくない。。。

 

馬鹿ですよね。そんなでもワーホリに行ってきました。青年海外協力隊に落ちた穴を埋めたいがために。結論から言うと「自分結構できるじゃん」っていう感じでした。成せばなるという言葉は本当でしたね。

 

 

ひたすら勉強の日々。文法云々どうでもよくて自分が言いたいことをひたすら調べて次の日には喋っているというほんとにいい実践だけを下日々と思います。

 

こんなに英語を勉強するのはもうないと思います。

 

 

 

 

居酒屋で英会話の練習。酒が入るとなんでかよく喋ると友達に言われます。

 

 

 

 

 

 

IELRS、ミックスファーム、バックパッカーズホテルの酸っぱい部屋。いろんな体験をしてきました。

 

 

 

人生初のヘリコプターも乗りました

 

 

 

 

いっぱい勉強したんですよほんとに。それだけ青年海外協力隊に落ちた穴を埋めたかったから・・・

 

 

 

IELTSはぱっとせず

 

 

 

オーストラリアの夕焼けや空が好きでした

 

 

砂漠はなんか居心地がよくてずっといたい場所でした

やっぱり変だよね、俺ってやつは

 

 

 

 

 

一番最初に働いたところのキャビン。ここで寝泊まりしながら働いていた人もいたんだって

 

 

 

 

一番輝いていた時代がワーホリしていた時だった。この記事を書いているときにはなんと10年が過ぎていてびっくり。なんかパッとしないな。帰国して10年たったのにね

 

 

 

結構歩いたんだよ。それでもなんかしっくりくるものが見つからなかった。でも歩いて旅したら、自分の新しい一面が見つかってきたんだよね。でもあと少しってところでワーホリが終わってしまった。。。

 

 

森林火災にだって巻き込まれた

 

 

 

 

 

生まれて初めて豚の心臓を手で触った。。。

 

 

 

砂漠の空はすごく高くて、なんか見上げるのがクセになっていた

 

 

嫌なことも楽しいことも、ずっといたいと思うところも見つけることができた。

 

ワーホリが始まったときは、初めましてということしかなかった。そう言うと「もうワーホリ終わりなんだ、うらやましいな」って言われることが多かった。初めましてとじゃぁねの繰り返しは、絶対に自分の中の何かを刺激して活力になるって確信した。

 

ワーホリが進むにつれて自分がワーホリは終わりなんだ・・・っていう立場になるのがほんとに早い。自分がはじめましてと言っていたのにもうじゃあねっていう立場になる。

 

 

日本から逃げてきてもオーストラリアに滞在するという現実との戦いはある。ワーホリに行ってきた人に共感するとともに尊敬するようになっていた自分がいた。

 

 

マイクさん。ヴィックさん、イアン。みな一世一代で事業を立ち上げた人たちだった。そこに影響されて帰国した俺はなんか事業ができないかと模索する。

 

自分のあり方を考えさせられた日々でした。ひとつの出来事に対してどう動くのか?それらのひとつの一つ出して結果や行動が自分だということです。意外と自分の中には巨人というすごいやつはいるということを確信しました。

 

 

 

 

2013/9/6日帰国 せどりを始めるも貯金250万を起業塾とか起業コンサルタントとかにつぎ込んで溶かす

 

 

ワーホリから帰国して、自分でお金を稼げるようになれればということを思っていました。しかし何から手をつけていいものかという悩みがありました。

 

そこでFX、アフィリ、せどりとやったことがあったことをリストアップしてせどりを選び、本気でやると決めて取り組みました。

 

最初の3ヶ月でやる気ない20万から初めて60万くらいまで増えました。

 

でもそのあとは頭打ちで、物販をするならものの数と売上の数がほぼ比例して倍になっていきます。ものに埋もれるのも嫌だし、お金を使い続けるのも嫌という自分の本音に気づいたところで起業塾に入ります。

 

ここでオリジナルの商品を作れればいいって思いました。ワーホリの体験をPDFにして販売したり、アフィリしたり。60万払っても鳴かず飛ばず・・・

 

ダサいヒラメキしかないということに気づきました。6ヶ月があってもコンサルタントに人に怒られまくる日々・・・でもコンサルタントの人が正しく、自力を鍛えることをしなかったということが一番の原因でした。

 

起業コンサルにも40万くらい払ってしまったこともあり、こいつは起業コンサルタントとして起業するとかいう詐欺なやつで起業したことないやつのうまき口車にのせられてしまいました。この時に消費者庁にったりいろいろ社会勉強だけをしてせっかくオーストラリアでためた250万を散財してしまいました。

 

 

この日々は一年続き2015の春から工場派遣を半年ほどして鳥取の移住ブームに手を出します。

 

 

工場は倒産したり移転したりとやはり思うようにもいかないし、機械のように管理された生活が嫌でした。ちょうど右足にしびれが走り、ストレスで体調を崩す時期でもありました。

 

作業が単調すぎて、不良品を出しすぎて、最後の工場ではクビになりました(笑)

 

2016年、鳥取のスキー場バイトを経て移住をします。

 

農業研修生でしたがどうしても個人事業主という頭は変わりませんでした。

 

 

オーストラリアでの日々は引きずっていて、何かを自分でしたかったんです。

 

 

吹雪の中、地域おこし協力隊の面接に向かいます・・・

 

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当時働いていたスキー場から面接に行きました。・゚・(ノД`)・゚・。

 

 

当時、移住者が移住してみたい場所ナンバーワンは鳥取でした。なんの考えなしに、移住してみたい県ナンバーワンということと、個人事業主への思いは消えず、農業研修生と地域おこし協力隊を利用して移住をします。二年後には就農という現実を見据えましたが覚悟が足りずに逃げました。

 

 

結果として就農しませんでしたが、しなくてよかったと思います。今も専業農家よりも、簡単に仕事に就けて季節がすぎれば自動的にやめれる農業バイトという風な位置づけの選択肢が自分にとってはあっていると確信しています。

 

 

 

 

鳥取移住は失敗して地方移住への自己規律ができる

 

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移住をした地域は少しおかしいという肌感覚を覚えざるを得ないところでした。

 

いろいろありましたが、あの街は一軒のスーパー、一軒の道の駅、一軒のローソン(あの当時の記憶ですけど)がありました。そして街に一件だけあるスーパーで買い物しないとなんでか研修先の農家の人の知り合いに怒られました。

 

このことが嫌でした。監視されていますよね?あと地域おこし協力隊は役場の嘱託職員という位置づけなので、税金で給料をも経っているということがバレています。だからそれをスーパーに落とせということだったのでしょう。こっちにだって選ぶ自由はあるからそれは認められませんでしたし、それに従うのが嫌いという性格だから。

 

地域の住民性があいませんでした。

 

 

 

二つ目の妙なところとして

 

 

なんでかわかりませんが、地域住民が移住助成金などにめちゃくちゃ詳しい。

 

 

ここも不気味でした。正直役場の窓口クラスに詳しいんですよ。

 

この町の特性として助成金なしではやっていけないということを十分に住民が理解していました。特に役場はその助成金を引っ張ってくるという心臓と脳みそを兼ねており、助成金というお金を巡らすことでこの街は農林業などの産業が回るからです。もちろん土建屋もそうで、役場の中に入札会場があるという非常に珍しい役場でした。

 

 

そして林業会社の社長?だったかな。その関係者は当時の町長の親族、土建屋も然り・・・という一族でずべての機能を把握してるという性質上支配といってもいいでしょう。

 

そんな感じでなんか息苦しさがありました。

 

就農する際には自分で土地やその交渉、計測など全て自分でやらなくてはいけませんでした。へードル高いし、土地ごとの小作料は地主しだい(言い値で決められてしまう)というのも嫌でした。

 

あとは既に就農した先輩の大半は冬場にはバイトをしているということです。借入れた事業資本金の元本や利息を返すためにバイトを冬場はしないといけないので事業として成り立ってはいないのでは?という疑問と自分が就農した場合の未来予想図の可能性が高く、それも幻滅したポイントでした。

 

そのほか

 

 

 

などなど。農家をした場合、納得できなかったのは苗の発注が間違って6000本位受注元が間違って少なかったこと。これはしょっぱなに遭遇しました。苗って資産です。

 

自分の努力が及ばない部分で収入に影響を受ける性質の事業はやりたくないっていう価値観が生まれました。

 

 

今は多少改善されたかもしれませんがそうでもないかもしれません。

 

 

村八分的にあの街を出た時の顔と荷物。ほんとに自分の顔とは思えないほど生気がない

 

 

移住の基準としてはとしては

 

・地域住民が助成金に依存していない

・一族で独占されていない

・変に地場産業を打ち出していきがっていない

 

という地域にしようという規律と判断基準ができました

 

 

としてこの時に人生初、買った車が動かなくなるという体験もしました。これがトラウマになって車を大事にするということもできるようになりました。

 

 

 

 

正直もうこんな顔をしたくないですね・・・

 

鳥取移住では愛車エブリーちゃんが手に入っただけでした。

 

 

 

2017年 2月 初めて話題になりつつあった山奥ニートとという人をニートの日2/10というイベントでしる。お遍路ハウスという企画に興味を持っているお坊さんのことも知る

 

鳥取から実家に帰る最中に爆弾低気圧に捕まり、京都から岐阜だっけ?兵庫まわりで京都に抜けようとした時にトンネルが通行止めだったんだよね。この時雪の中で車中泊したけど寒くて寝られなかった

 

 

ぼちぼち写真があるようになってきたね。

 

 

後輪2駆のエブリーちゃんはお尻をふりふり走ります。チェーンを買ってなかったので止まったら終わり・・・走ってる最中に対向車がいきなりスピンしてくるとかいう場面にも遭遇しました。ほんとに雪道は怖いっすね。

 

 

命からがら実家に到着。

 

ニートで検索すると、2/10日が「ニートの日」というイベントがあるということを聞きました。そこには当時ニートのカリスマという存在であったPHA氏が登壇するという。これは行かないと!!ということで会場に行きました。

 

もうひとり、気になっていた人が山奥ニートという人です。

 

イベントではゲストトークということでPHA氏と喋っていて、「なるほど!」という話題のクローズアップと切り取り方がほんとに上手い人っていう印象でした。

 

この時になんとなくモヤモヤしていたものが輪郭を帯びてきた感じでした。

 

この時に今の生活のスタイルとこのブログのタイトル通り、二足のわらじという生き方をしていてもいいという確固たる何かが頭の中でGOサインを出したんです(笑)

 

 

そしてもう一つ、お遍路ハウスという企画が持ち上がっていました。このイベントを主催したNPOでも一つお遍路ハウスを出し、引きこもり支援の一環としてハウスの管理人を募集していました。こういうものならやってもいいなって思ったんですけどね。でもうやむやになってしまいました。でも存在しているようですね。このNPOのハウスかどうかはわかりませんし、コロナというものがどういう影響を及ぼしたかまでは調べていません。

 

このお遍路ハウスという企画に興味を持っているという四国のお坊さんがいるということも合わせて知り、この人に会いにいくということをしました。

 

 

 

 

 

 

四国のお坊さんにいきなり凸で会いにいくも優しく接してくれました

 

 

ニート祭りから一週間と経たないうちに夜行バスを予約してお坊さんのところへ行きました。鳥取から出るときに比べれば多少はマシになりましたよね・・・環境を変えるって大事ですよ。

 

 

ちなみにこういう方です。

 

 

 

死にたいとまでは・・・いかないのかあと少しで行くのか。リストカットとかはしてないですけど何回か鳥取から出る間際では包丁をお腹に当てて遊んでいました。

 

先端が当たるとチクチクします。でもこれが脂肪を抜けて筋肉に当たったら痛いだろうな・・・

 

そいて筋肉を貫いたらめちゃくちゃ痛いだろうな・・・

 

そしてはらわたに届いたら死ぬほど痛いだろうな・・・

 

 

そいういえば筋肉注射嫌いだし・・・

 

という感じで我に帰ったようなそうじゃないような・・・

 

話が現在進行形で作っているソトゴモリぷれいすに戻りますが、これを作ろうと思ったきっかけでもあります。

 

今の物件を見学に行くということを手紙にして報告しましたが、未だに物件を購入したということと、このシェアハウスを作っているということを報告できていません。来年、今のバイトが終わり、リフォームをする前に写真を印刷して途中経過を報告したいです。

 

一方的に送るだけといういうか、ただ言いたいっていうだけなんですけどね。あの時の恩を返せるような気がしてるんですよね、そうすることによって・・・

 

 

話は当時に戻り、ニート祭りが終わり、夜行バスで愛媛にきます。もちろんアポイントもなし。

 

 

 

話をお坊さんに会いにいくところに戻します。

 

上の写真はお寺に行く途中の景色です。歩く足はなんで顔も買ったです。何度引き返そうかと思ったことか。なんせアポイントメントなしです。でもなんか行くしかなかったんです。

 

なんでか・・・

 

 

 

歩くこと30分くらいかな?

 

最寄りの駅からそれくらい歩いてつきました。でも直接尋ねることができずにちょっととなりの霊塔をみてから訪ねよう、と少し遠回りします(笑)

 

なんか精神のバイオリズムというか、なんかまが欲しかったんですね

 

ヽ(´Д`;)ノ

 

 

ちょっと時間を稼いで心を落ち着けて・・・と思ったんですけど15時を回り、もしかしたらこれ以上遅い時間だとな・・・とかいろいろ頭の中で変な考えがぐるぐる回りだして、意を決して玄関から「すいません」と声を帰るものの反応なし。

 

なんでか安心する気持ちが出てきてしまうもなんか複雑な気持ちにもなりました。せっかくここまで来たのに・・・

 

 

少し待てば外出から帰ってくるのでは?と思い、寺の前にあるあずま屋?膿瘍なところがあったのでそこでしばらく待つことにしました。

 

 

30分くらいするとヤギの散歩か草取りを終え、裏山から下りてきた和尚さんが声をかけてくれました。

 

「何?どうしたの?つらいの?まぁ入んなよ」

 

何かを察してくれたんですね。後で話を聞くと今まで君みたいな人たちが結構訪ねてきたし、そう言う雰囲気を出してるからひと目でわかったよって話してくれました。

 

およそ10日間くらいここに寝泊まりしました。この間は、確信に触れることはぜずに、抽象的に接してくれました。言い方というか日本語がおかしいですけど、正論とか論破というものが流行っている中でただ傷ついたりがっかりした人への確信に触れない優しさがある人で、それを察してくれていました。

 

いろいろ話を聞いてくれたし、和尚さんの生い立ちも教えてくれました。

 

お遍路ハウスのことも聞きましたが、遍路道からこのお寺は遠いのでどうなのか?っていう感じで参加するかは微妙っていう感じでした。

 

 

自分のことも話、和尚さんも知り合いのみかん畑の中にぽつんとある小屋で生活して、日銭がなくなったら畑の手伝いをするという感じの働き方をしていた。だから結構似た者同士で話があったんですね。不思議と。

 

 

そして

 

 

君には縁が必要だと思った

 

という印象だったそうだ。一目俺のことを見たときにね。全部見抜かれていたんだなって一瞬で思いました。だからここにいる間はいろいろなお坊さんの知り合いに合わせてくれた。

 

 

 

 

Oリングっていう占いができるYHAのオーナーの人。「お坊さんにならないか?」って結構オファーもらったことが新鮮だった(笑)

 

住職ってなるのに資格がいるらしい。

 

お坊さんによっては僧侶って言ったり、住職と言ったり和尚といたり、いろいろな呼び方がありますが、実はそれぞれ違うんだそうです。宗派によっては権力や財政力が違い、お金も権力もない宗派に属してしまうとそれなりに苦労をするっていう話になりました。

 

この人は宗派を超えていろいろなお坊さんたちと交流を持っていて、これは珍しい部類だそうです。なかにはお坊さんでもいじめてくるひともいて、結局は人なんだなって思ったこともありました。いろいろな派閥もあるそうです。

 

 

悟りを開くってお坊さんや仏教を勉強する人たちの最終目標なんだそうです。お坊さんだからといってみな悟りを開いているわけではなく、ずっとそれを目指している人も自分の悟りを開いたという人もいて様々。

 

 

住職の資格を取るのに2年くらいは修行をするんです。もちろんこのお坊さんもそこに泊まって住職の資格を取っています。でも結構な人数がこの住所くの資格を取りに来ますが、かなりの人が一人、また一人と夜逃げをするように出て行くらしいんです。

 

ほんとに俗世から離れるために必要なものだけをもって修行をするそうなんですが、この修行をする時とかしばらく立った時にある人は「家族が大事だ!」とか「恋人やお嫁さんが大事だ!」ということをある意味悟って抜けていくんだそうです。

 

悟ることを出来たからといってすべてが楽になるということとも違うんだそうです。

 

そんなこともお話してくれました。

 

少なくともこの和尚さんは「誰かの為にがあったらハリが出て楽しい毎日になるんじゃない?」や「誰かの為にがキーポイントかもね」ということを教えてくれました。

 

この人も年が三つしか年の離れない娘さんがかつていました。その時に病気の為にこの和尚さんのお寺に身を寄せ、看病と最後を看取りました。ここに泊めてもらった時にこの人の生前のDVDを見せてもらいました。「何かを感じて欲しいから・・・」と見せてくれました

 

壮絶すぎて「生きていればいいことあるから」という言葉は無責任だと思わざるを得ない位の報われなさの世を生きた人って感じました。まだまだ努力もなんも足りないなって感じました。

 

その人の手記がこれです。

 

 

 

夫に財産を奪われ、裁判の末に離婚を勝ち取りますがそれまでの過程でこの人が気づいたものはすべてがなくなりました。和尚さんが見せてくれたDVDにはこの人守るために竹刀を持っているシーンもありました。

 

他界される前に言ったこと、「生きてたっていいことありゃしねぇ・・・」という言葉は刺さりました。

 

 

ちなみにこの人はクリスチャンでした。宗教の垣根は関係なく交流をしている珍しい人です。

 

 

このお坊さんは等身大の悩みに寄り添ってくれるところがほかのお坊さんと違いました。

 

 

数多くの人たちが死にきれずに相談に来たり、一人悩みを抱えて相談に来たり、自殺をしたひとの親戚や奥さんなどの後追い自殺を止めるために何かしたりと活動をされてきた人です。

 

 

およそ10日間ほどお世話になりました。

 

ただ優しい、それでいて抽象的でぼんやりとした確信に触れない会話でコミュニケーションを取ってくれて、多少話しやすい雰囲気を作ってから問題に触れていく。それでいてよりそって優しく背中を押してくれる、聞いてくれる。

 

ほかの人のように正論の説教をしない。ほんとによりそってくれたことがありがたかった。

 

 

このあとは共生舎に行き、その帰りにこのお坊さんのところにもよりました。

 

山奥ニートさんのところに行った話も聞きたいを言われていたし興味を持って山奥ニートさんのことは実はご存知だったことも新鮮でした。

 

 

家庭環境がほぼその人の人格や行動に影響を及ぼすということを説いていました。

 

 

今でもこのことを意識しています。

 

 

居心地のいいあのなんというか、ほんわかした安心感。これが家庭にないと人は何らかの不安定な性質をみつけたまま大人になってしまうというようなことを学びました。

 

今作っているソトゴモリぷれいすもあの時の居心地の良さが実現できたらなって思っています。

 

 

 

和尚さんと娘さんのガンとの戦いとあくどい夫との戦う日々を記した手記はこちら

 

 

 

 

 

 

山奥ニートさんの住む共生舎に行く

 

 

四国のお坊さんのところに行き、その後車で和歌山の共生舎に行ったのは2017/3月の上旬くらいでしょうか?

 

まだ寒く、山道は電波がなくなり、ほんとにたどり着けるのかわからない山道をひたすら登って行きました

 

 

途中途中で倒木が電線に引っかかっていたり、路肩が弱くなっていたり・・・

 

 

それでもたどり着くことができました。

 

確か最初に行った時は夜の20時すぎだったと思います。山奥ニートさんに車を誘導してもらって入れてもらいました。速攻で麻雀に誘ってもらったことをまだ覚えています。

 

季節ごとの仕事をしながらでも出費さえ押さえれば最小限で暮らしていけるという事のヒントをいっぱいもらった場所でした。あれもこれもと考えていくと足りないことばかりになり、そのうちに身なりにあった生活をいうものを見失いがちになるこのご時世のなかで、最小限で生活をする事。

 

 

ここでの生活は「足りるということを知る」を体現している人たちに囲まれている感覚になりました。なんでもかんでも必要必要って叫ばれるけどほんとに自分に必要なものを分かっている人がたくさんいたような感じ。この影響は受けるべき影響って思いました。

 

 

その中で当時はまだ出稼ぎのリゾートバイトから帰ってきていない人がいて、その人はスキー場バイトで稼いだお金で一年共生舎に住んでまた季節が来たらスキー場・・・というサイクルで暮らしているっていうようなことを聞きました。今のブログタイトルの二足の草鞋という生き方を模索するようになりました。

 

 

そのためには余計なものを捨てるということをしなければならないと思いました。それはそれほど難しくなく、まず家賃が思いつきました。年間払い続ける家賃さえなければもっと生活って楽なんですよね。

 

 

だから家を買おう+地方に移住しようっていう感じになりました。

 

 

 

綺麗な川が近くに有るのも魅力。もっとこんな感じで、どいなかでもないそこそこ便利な片田舎に家を買おう。そして今まで払った最高の家賃は35000円だったのでこれに12をかけて42万として50万で空家を買うという思想が自動で出てきました。

 

 

この時点ではまだ家を貸すだけというものでシェアハウスというものではなかったです。

 

お世話になった四国のお坊さんがお坊さんになったきっかけとしてど太えスキーの本を読み、「悩みを解決したいなら悩んでいる人のところに行け」ということばあり、これがきっかけで仏教を学んで住職になろうと決意されました。

 

悩んでいる人集めてその悩みを集めてから考えようってこの時は思っていました。

 

 

 

 

2017年6月より インターネットのホームページを作れるようになるためにウェブ科という職業訓練に通う

 

 

 

この年、この職業訓練に行くことを決意します。ワードプレスのブログを立ち上げて以来何の進展もない、ワードプレスのテーマを自分で作れないということに苦痛を感じていました。プログラミングのフリーランスも流行っていたのでそれにまた影響されてこれに手を出してしまいます(笑)

 

以前に侍エンジニアという塾で学習しましたがまだ出来立てということでたいせは整っていませんでした。質問しても検索してくださいと言われて憤慨(笑)

 

教材のコード自体が間違っていたからわかるわけないでしょ?っていう感じのやり取りで3ヶ月が過ぎました。お金をドブに捨てたという苦い経験上確かなものに触れたかった。

 

 

かなりの競争率の中をくぐり抜け、見事この職業訓練に参加することができました。

 

 

2017年6月~同年12月まで通います。

 

 

この時の記事はこちら

 

 

ここでちゃんとHTMLからやることによって、正しくホームページのつくり方を理解できました。この上でPHPの自動でコンテンツやページを作成するという機能がどれほど画期的かどうかがわかりました。HTMLでブログを書くってすごいことなんですよねヽ(´Д`;)ノ

 

 

根本を理解して行けたことで発信することと、したい内容ごとにHPを分けることが可能になり、かなり自信がつきます。でも本来の自分はこういうちまちましたことが好きではないということが理解できます。うすうすと愛媛のみかんアルバイターというのが視野に入ってきたのもこの頃です。

 

 

自分はプログラミングでは生きていけないという自己理解をしました。他人の要望に応えるよりも自分のあーしたい、こーしたいを叶えていくほうがよほど重要だと気づきました。

 

 

 

 

 

血便に悩まされる2018年1月。その後2018/2月~9月まで地元で郵便局の配達のバイトをする。配送業は絶対にやらないと心に誓った(笑)

 

職業訓練に通い、年が明けて今年はなんとなく地元のバイトをしようかと思っていました。それでもあんまり働きたいという気がわかない。

 

そして鳥取に移住をした時から悩まされていた血便がひどくなり、大腸カメラを入れて向き合いと決意しました。

 

切れ痔と思っていましたがなかなかいい量の血が出ていたので「大腸がんか?」なんて思っていました。生まれて初めての肛門科受診です(笑)

 

 

実際に受診したとき

 

 

女性に初めてズボンを脱がされて触診された時の話

 

 

 

 

 

腸内の汚物を除去して撮影しやすくするために下剤でベンを出すのがほんとにきついヽ(´Д`;)ノ

 

 

結果は悪性かどうかはわかりませんがポリープでした。しかしその後はこのポリープの腫れも収まったのでただの切れ痔になり一安心です。

 

 

切れぢ・・・厄介な傷を負っちまったぜ・・・

 

 

今年はこのあと9月末までゆうパック配送委託のバイトをします。午前中だけですが15時までかかることもしばしば。もうそろそろ辞めるという先輩がいて、こいつが手を抜く天才で居眠りとかされてる最中にこちらが働かされるという。腹たったぜ糞村!!(`・ω・´)

 

 

 

 

2018年、9月末に配達バイトを辞める⇒秋田の八峰町へ行く(DIY教室)⇒大船渡へ行く(福島の震災の爪痕を見る)⇒高知の生姜アルバイターへ行く⇒愛媛のみかんアルバイターへ行くということをします。

 

 

この時は移住はするけど定住はしないという考えで地域を見ていました。家はいくつあってもいいしそれがシェアハウスなら現金化もできて自分の生活も行動範囲も広がっていくから、シェアハウスをいくつか持つということはこの時に思っていました。

 

 

いろいろな農業バイトをしながら地域を見て空家も見つつ移動を繰り返します

 

 

2018年の冬は岐阜のスキー場、その後は長野のアイススケートリンク、岡山のギークハウスで英検を受ける、愛媛のみかんアルバイターにいく。

 

その前に愛媛の和尚さんのところによります。

 

すると、体調を崩されており、入院をする寸前でした。退院出来たら住職と壇家さんの引継ぎをしてお寺を離れると言われていました。

 

和尚さんと一緒にいった双海の海岸

 

 

二年目のみかんアルバイター

 

 

二年同じくしてであったアルバイター(笑)

 

 

このあとは新潟のスキー場に行きますがムカついて早めに切り上げます

 

 

 

 

2020年 本気で空家を買うべく東京のひのはうすにて空き家バンクの内見を予約しまくるもまさかまさかのコロナの到来

 

 

 

もうこの時はある程度の物件を買う基準を頭にいれ、九州の物件を買いたいと思っていました。

 

 

ひのはうすを拠点にして空き家バンクの内覧へ!

 

 

大分、長崎、岡山、広島と東京間を2往復+秋田-東京間を2往復します

 

 

コロナで新幹線、フェリーが動かない、減便と登場する席を減らすということで予約は取れず、ふぇりーは 国土交通省が定めた改装工事を終えるまで営業はできず、7/14くらいに再開でした。

 

 

高速をつかっての移動はほんとにきつかった・・・

 

 

 

倒壊している家を見たり(笑)

 

 

 

 

やたらめったら天井裏が膨らんでいる家を見たり

 

 

なんかものすごく傾いている家を見たりとなかなか刺激的でした(笑)

 

家を見る目を養うこと

 

これはただでできるから断るつもりでガンガンやるべきと思いました。

 

 

一度目、二度目の九州遠征は失敗、その後、秋田の0円物件は購入できず・・・

 

冷やかしでいった秋田の物件の次にまだ交渉中の物件がありました。この物件がいまリフォーム中のソトゴモリぷれいすの物件です。

 

 

秋田市に住んでいる人が交渉していて、家族で住むっていう前提で話しをしていましたが、旦那の説得に失敗して交渉をドタキャンしたとか(笑)

 

 

この電話を二度目の九州の内覧をしている最中にうけて秋田に飛びました。

 

 

 

 

 

 

2020/7/30 待望の空家を人生で初購入!!

 

 

ついに地方への移住とソトゴモリぷれいすの物件を買いました!!!

 

これまでに気づいたこと、特に移住に関しての地域性の判断基準は満たしていた場所でした。

 

特に新潟の妙高のスキー場を早く切り上げた理由ですけど、

 

 

 

なんか~温泉株式会社(前株でもあと株でも)というものがあるところはなんかおすすめしません。利権に固執する人たちが俺は嫌いです。若い人たちを自分たちの見込み利益に巻き込もうとしか考えていないのが見え見えなんで。

 

 

この物件を買った地元の人々は穏やかです。別に地域の地場産業を売るというような野心もなく、それでいて地味に秋田は移住者が増えつつある場所だそうです。俺がこの物件を買った場所も例外ではないです。

 

人口はおよそ9000人、でもこの町を歩いていて見たことがないものがあります。それはベビーカーを押しているお母さんです。新生児をこの町で見たことがないんです。だからそれが問題かもしれませんね。でも鳥取の時はそこで生まれ育った人が絶対に戻りたくないという町で、ここは仕事さえあれば戻ってきたいけど・・・という場所で正反対です。

 

 

いろいろな土地を見てきた俺にとっては不思議な場所ですね。

 

 

 

 

こんな感じの場所ですが、今はリフォーム中です

 

 

 

 

この空家を購入後、山形、長野、奥志賀高原という住み込みの外とを経て2021年のオープンをするために奮闘しましたが、水道管の歯列というどうしようもない自体がオープン直前で見つかり、延期を余儀なくされました。

 

 

2022年のオープンに向けて今は四国で出稼ぎ中です。

 

 

 

かつて和尚さんと過ごしたあの安心できる時間を過ごしたい、そして提供できたら・・・。と思います。

 

 

そう言う思いで作っている場所

 

 

都会の暮らしに疲れた人

引きこもった状態がつらい人

生き方で悩んでいる人

ブラック企業で磨り減ってしまった人

そういった人たちの人達のための何もしないをやりに来る場所、「ソトゴモリぷれいす」を作りたい・・・

 

 

その過程を綴っているブログはこちら

 

youtubeはこち

 

 

 

 

 

 

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