私の履歴書
どうも、装い新たにブログを一新するような気でいるイズです
ああ、空き家欲しい・・・
タダで
はい、ちょっと欲望を吐き出してみました(笑)
さて、この記事は僕の履歴書です
僕が今までどんなことをしてきたのかということをわかりやすくまとめています。現在進行形で僕の現在地がわかります!
こんな生き方していても結構生きていけますよ!
■私の経歴
(おそらく一年ずれているかもしれません・・・お気になさらず)
2003年 高校卒業⇒北海道の大学に進学
2003年 春 北海道の大学入学+念願のひとり暮らしが始まる
2007年 3月 大学卒業+就職した会社の研修が始まる
2007年 3月後半
代々木オリンピックセンターにて就職した介護大手の大卒研修という名の洗脳が始まる。その当時のインストラクターという指導をする人に対してものすごく違和感を感じる。
特に嫌だったのが会社の
コムスンの誓いを毎朝みんなの前で言うこと。暗記できていないと怒られる。
そんな中、志願者が次々と話が違うということで荷物をまとめて帰り出す。そんな不穏な空気の中で疑問が大きく沸き上がってくる。
2007年 4月 北海道に戻り、北海道の介護施設に就職。今は亡き、介護大手のコムスンに入社してしまう
そしてちょうど当時は裁判の最中で、最高裁の二審位で負けて、裁判は負けが濃厚な時代でした。
そして新しくオープンするはずの施設は次々とオープンの新鮮が通らず、スタッフがもともと務めるはずだった場所とは違うところへ派遣されてしまい、結構空気は悪かったです。
そんな中北海道の札幌ドームの近く(だった気がする)の施設にオープニングスタッフとして配属された僕は早速世間の荒波に揉まれます
・3月の研修分の給料が入ってこない
・周りの先輩の交通費、夜勤手当が入っていない
・資格手当や役職手当が入っていない
などのトラブルが発生する
2007年 5月 ブチ切れる
人事部に何故か僕が未払分の給料を請求するという栄えある業務を担当することになるが、人事部から驚愕の一言でブチ切れる
僕 「お疲れ様です。未払分の給料と交通費手当と僕の大卒研修の給料はいつ払われますか?」
人事部 「来月夜勤は言ったら稼げるよ」(ほんとにこのやりとりはありましたよ(笑))
!?(゜д゜)
その瞬間に僕は電話を切り、ホーム長に
俺辞めるわ
という
2007年 6月 新卒を3ヶ月で辞める
今は亡き、介護大手コムスンを3ヶ月で辞める
新卒で経験した社会の荒波(3ヶ月)
・給料未払
・人事部、並びに会社組織の裏切り
・大卒の僕を引き止めに来たエリアマネージャーという人間は実は僕が辞めるよりも2週間早くこの会社を辞めていた
・労働組合ユニオン(当時の社内の組織)はこちらの言い分をもみ消す
といった具合です。
そして僕がやめた月には8人ものスタッフが退職。その中ににはもちろん介護長、副介護長、ホーム長を含む8人が辞めていたことに衝撃でした。
大卒の僕を引き留めに来たあのエリアマネージャーもたしか僕が出した履歴書をもってきて「気が変わってしまったのですか?」みたいなことをいっていたんですが、そりゃかわりますよ。
賃金未払いだもん
しかもこいつ俺よりも2週間早くやめやがった(笑)
世間に背を向けた時でしたね。そりゃ多少すれてもいいくらいのできごとよ
2007年7月-9月 音楽イベントなどの日雇い派遣をフラフラする
札幌ドームでのドリカムのライブスタッフとかをして吉田美和が間近で見れたということが記念かな?
でもとび職の人のバイト君たちの扱いは人として扱っていないので二度とやりませんね
それと某コンビニの新商品のプロモーション会場のゴミ捨て場の係りを担当しましたがこれも二度としませんね
商品情報の機密保持?だったかな?
それを守るのが僕の業務だったけど、実際は一口も食べていないおでんやケーキを70Lの袋に入れて20袋以上潰して捨てたという仕事。日本は食べ物の中に八百万の神がいるとか言っているけど
うそだね
特にあの時の某大手のコンビニが環境問題に取り組んでいますとかこんなことを言ってたけど
70L以上の手つかずの食べ物を捨てておいてそれは嘘だね
ということを確信として得ました(笑)
世界の食べれなくて困っている人をその瞬間で何人殺したんでしょう僕は・・・
2007年10月-同年12月 洞爺湖で交通誘導員
当時の北海道は洞爺湖サミットがあり、洞爺湖での環境整備という大きな仕事がありました。
交通誘導員をして多少はお金を貯めないとって思ったんですが、豊平から洞爺湖までの移動の時間が2時間くらいかかって、しかも残業まですると夜の10時近くにケリがなるのが嫌でした。
車でピックアップをする人はもっと遅いです
片側交互交通の島の中でうっかり幅広と呼ばれる大きなトラックを止めてしまい、ゴミを投げられてムカつきました。そしてやめました
2007年12月 - 2008年 3月 群馬のスキー場スタッフ
もう新卒ではないので、人生は終わったと考えていた僕は、もう人生は一度きりだと奮い立ち、スキー場のバイトに応募しました。(そんなにいきり立つ仕事でもないので世間を知りませんでしたね、僕は)
その後また北海道のアパートに帰り、北19条のアパートに引っ越します
2008年 6月-11月 交通誘導の会社を2社転々とする
一社目は全然仕事が入ってこなかったからソッコーでやめ、二社目の現場では、土建屋の監督に
「本当はガードマンなんて雇わなくてもいいんだよ!!」
と言われ、コイツの顔が見たくないからやめました。しかもこの監督はアホで、コンクリートのコア抜きをよく忘れます
そしてガードマンの伝票を切ってなお、ガードマンを呼んでコア抜きさせるというサービス残業を強制してくる現場監督です。でもガードマンも立場が悪く、取引先が減ると、警備員の仕事が減り、待機が多くなると隊員がいなくなるということを避けるためにしかたなくやってしまいます。
※コア抜きとは?
道路工事の時はアスファルの厚さと密度がちゃんと道交法の規定通りになっているかを写真で撮るんです。これを忘れると工事の入札ができなくなったり、会社の評価が下がるので本当に忘れてはいけない作業
こういうことが徐々に僕の中に積もっていきます
2008年 12月-2009年 5月 長野のスキー場スタッフ
この時に英語の準2級を勉強してそれなりに話せるようになる。(でも試験は落ちました)
でもスキーに飽きが来ている自分に気づいたのもこの時。自分の生き方と職を考えるようになる
2009年 10月 トマムリゾートに短期スタッフで行く
北海道での生活に限界が来ているっていうことを薄々感じていました
そして自分は雇用期間に対して必ず定めのある求人に応募するということに気づき、それがなんでかわかりませんでした。
もうこの時に履歴書をかなりの枚数を書いてきていて、結局応募動機を相手に気に入られるように書いていくということに疲弊していました。この時から履歴書がかけないということに苦しみを感じていました
20代のターニングポイントとして、のキーパーソン、ある一人のバックパッカーに出会います
そこで彼の考え方に感銘を受けます。のちのち海外に行くという事のきっかけをくれたのが彼です
2009年11月-2010年 3月 北海道白石のグループホームに派遣で働くけど半年でギブアップ
結局最初の就職しないと生活ができないという結論になり、一応ずっと働いてみようということで最初についた介護の職に就きました。有料介護ではなくグループホーム。
でも主婦のて料理自慢会という職場なのでそれが嫌でした。
ここをやめた月に、北海道ならではの水落という凍結防止の作業を毎日していましたが、蛇口の開け方が甘かったらしく水道管が破裂していました
寒い部屋
冷たい水
濡れた家具
それでも仕事が明日ある
そんな中で見かねた母がなんと北海道の僕の家まで来てくれました
ノイローゼな僕はずっと泣いていました
人生が、特に仕事がうまくいきません
そしてこの部屋を引き払って地元の埼玉に帰りました
母はガンの治療中でもあったのに来てくれました
嬉しかったです
翌日の出勤でやめるということを伝え、その月末に地元のに帰りました
2010年 4月-11月 ほぼニートをしながら青年海外協力隊の応募を二回する
もう働きたくない僕はしばらくボーッとしていました
自分で何かしらの収入が作れないものかと考えていました
あるとき、BIGトゥモローを手に取ってせどりという転売手法があることを目にします。
ガラケーで調べながら、アマゾンでほそぼそとモノを売っていました。
でも売ったり売れなかったりと一進一退で正直お小遣いすら捻出できず、お金画から回っていました。肝心の僕はそれに集中できておらず、心が上の空のままでした。
ちょうど介護の夜勤のとき、青年海外協力隊の募集ずっと見ていました
それとメールで大学の友達が青年海外協力隊に行き始めたということも聴き始めました。
それなら僕も・・・
ということで春と秋の募集に応募をしました
春の応募の結果は落選。
そのあとキャンプ場のバイトを見つけて2ヶ月位働きました。
血液判定はなんでか知りませんが判定不能です
僕は生まれてこの方健康診断なんてしたことはなかったです。ABO判定という血液判定なんて全くと言っていいほど知りませんでした。
でもなんでB型の僕が判定不能なんだろうか・・・・
しかも落ちたのが健康上の理由で、JICAに問い合わせしたところ、
「輸血リスクの高すぎる人なので派遣をすることを見送らせていただきました」
という回答・・・
ごもっともです!
※この時点までは自分の本当の血液型を知りませんでした
2010/10月 フィリピンにボランティアツアーに行く
青年海外協力隊では海外のボランティアの経験が重宝されるということを聞いて10万くらい払ってツアーに参加しました
でもボランティアは何もできない奴がなにかしたいでやることではないということを逆に言われて撃沈
現地でも散々でした
しかしこれが自分の姿ということを認識できました。
それとこの時にフィリピンで作ってもらったFBは消しています。現地の人とこの時の現地のNPOのひとがしつこく寄付を強要してくるのが嫌でアカウントを消しています。こう言うこともあるんだな、っていう感じの勉強になりました
2010年-11月 青年海外協力隊 秋応募落選
秋の応募を迎え、結論は落選しました。
そして前回の春応募と同じ目にあわないようにひとつの工夫をしました。
いろいろ大学病院などに電話して、自分の血液型を知るための方法を模索していました。
ある大学病院の輸血科では
「あくまで緊急の事態のための施設と設備なのでしてきな理由で当病院の輸血の施設を使うことはできません」
という回答が来ました。
前回健康診断を受けた病院で血液型が出ないってどういうこと?っていうこと聞きました。
血液型は遠心分離機で詳しく調べるということ、そしてそれらは輸血をする、もしくは交通事故か何かで輸血の必要が出たとき、緊急の要請を受ける輸血科?なるものが大きな大学病院にはあるらしい。
だから地元では一番大きな大学病院を探してそこに行ったんだけどダメだった
そしてその大学病院から聞いたのは、献血センターに行くということでした。
基本緊急事態でない限り、血液の判定をしないんです。
そして基本的にできるはずのABO判定では実は僕は判定不能というふうに出ます(笑)
腕の一本や二本は
「ふん!」
とか気を貯めたりしたら生えてくるものかと思いきやそうではないんですね(当たり前)
そして献血センターでは、血液証明ということを無料でしてくれるということでした
RH-とかABO判定とかで判定ができない人の血液型も実は判定してくれるというもの。輸血自体もちゃんと調べてからじゃないとゆけつできません。こう言う事情で調べてくれます
すると後日はがきとこれが同封されてきました。
元本は青年海外協力隊の秋応募に送付してしまったのでありません。その代わり、財布にいつも入れてあるのがこの血液型証明証です。だって血液証明しないと多分死んじゃうのだろうか?
という根拠のない不安に苛まれていて、これをいつも持ち歩いています(笑)
一応健康上のものはパスしました
しかし技術不適合ということで落選します
2010年12月-2011年 3月 北海道のボラバイトへ
失意のそこでの落胆とお金がないということ、それとずっと一箇所で働くということをしたくなく、3ヶ月だけ働くというキーワードを胸に一旦お金だけために北海道へ行きました。稚内です
この時にテレビの取材も受けました(笑)
就職難で地方に働きに出る若者というなんとも落ちぶれた被写体です
結局時間が不規則で拘束されるのが嫌なのとダメダメと殴られるのが嫌でやめました。
そしてここを辞める三月にトマムであったバックパッカーから一本のスカイプが入ります
フランスに来ないかというお誘いでした
結局ここを辞めたいのと行くとこややることがないので、行くことにしました。でもこの時点でフランスに行ける用事があるかは分からにあということを言われていてあんまり宛にしないでくれという感じでモノを言っていましたが、僕は
絶対にある
という気概でここをやめました(笑)
2011/4-5月 フランスで*******
さてこの時に人生で初のおフランスに行ってまいりました。バックパッカーたちの間では有名なイベントになんと誘ってもらえました。僕は初参加ということでこれから先にはいけませんでしたが貴著な経験をさせてもらったということは確かです
この時に青年海外協力隊に落ちてしまい、そしてなんとなくフランスでもやってこれたという過度な自信がついてしまい、ワーキングホリデーというモノを意識するようになります
2011/5-6月 クレカの勧誘の派遣と工場のライン作業のスポット派遣
この時点で青年海外協力隊に行けなかった何かを埋めるためにワーキングホリデーに行くということが決まっていました
しかし働きたくないけど金はいるという状態です
仕方なく日雇いを始めました
でもクレカの勧誘は不毛すぎてそんなに長くは続きませんでした
あと10年分のアンパンマンを工場の日雇いで見ました・・・もうアンパンマンはいりません
2011/7-2011-9月 キャンプ場の短期アルバイト
ここは二年目でした。人生で初めて二回来たところです。ここは僕にとっては居心地のいいところでした。このあとに非常勤職員の打診がりましたがオーストラリアにいたために断りました。
今思えば惜しいことをしましたね
2011/10/16 オーストラリアへワーホリに行く
最初はカナダだったんですけど、青年海外協力隊は任期が二年ということもありセカンドワーホリ制度とキャラバンパークでの仕事があるということでオーストラリアに決めました
正直言って人生で一番輝いていた時代でしたね
2013/9月 帰国
2013/10月-2014/7月 本気でせどりするけどこける
もともとオーストラリアで働いた場所は、オーナーが一世一代で作った場所で働いていました。だからそう言うところに変に憧れたということもあり、あとは履歴書をかきたくない、面接がいやということで何かしらの収入源を自分で作るということができないかな?なんて思って思い、始めました
手始めにFXとかブログアフィリとかやってみて一番即金性があった転売をするということにしました
でも結局最大は60万の月商までしか行かず、80Lのリュックサックにいっぱいに仕入れをするまで帰らないということをずっと出来ませんでした。
モノで自分の家が溢れかえるのが嫌で、それに嫌気がさしてきてそのままフェードアウトしました
あとは池袋とかで「検索行為はおやめください」とか言われるのが嫌でしたね。そりゃ僕がいけないんですけどね。でもそのたびにしたうちとかしてた自分がいて、40、50,60歳になってもこの状態でいるのか?
っていう疑問がわいてあり方を意識した結果、このままこれを続けたくないっていう風に思ってやめました
2014/9月 起業塾に大金はたいて入る&起業詐欺に引っかかる
60万叩いて起業塾で企画を勉強する。ワーホリの商材を作るとか息巻いていたけど結局泣かず、飛ばずで半年が過ぎてやめました。
ちょうど起業コンサルタントという自分が起業してすらいないやつにひかかった時期でもあり、そいつに払った40万がパーになる。
やはり脳みそが弱いということを認識しました
2015/3月-9月 お金が底をつき、工場派遣をする
あれだけ嫌がっていた派遣をすることにしました。結局ワーホリで作った250万を浪費してしまったことが最大の痛手で、未だに僕の生涯年収の中で一番稼いだ額でした
派遣コーディネーターが糞で、タイムシートを取りに来ないということが多々有り、ここでもそいつのせいで給料の支払が遅れるということを体験して、新卒時の嫌なことがフラッシュバックしてきました。
働くといいことがない。。。
そして一見目の厨房器具の型抜きの工場は福岡に本社が移転するっていうことだったようなことで働き始めて三ヶ月で工場が閉鎖し、派遣切りに・・・
二軒目の金属加工のNC盤という機械を用いてする仕事は面白くもなんともなく、しかも昼飯を食べる席まで決められていて、高速感が嫌な会社でした
そして不良品を結構作ってしまい、そのままやめました。
2015/10月 移住というブームに乗って島根と鳥取を見に行く
工場をもともと九月で辞めるということを決めていた僕は、ついに島根と鳥取に下見に行きます。ちょうど地域おこし協力隊というものがターンズなどで取り上げられていて、それにでも応募してみようかと思っていた時でした
なんとなくのノリで鳥取に決めました
2015/12-2016/2 鳥取のスキー場でバイトをして地域おこし協力隊の面接に行く
鳥取の行研修生という制度を見つけて、応募しました。事業主という生き方を諦めきれていなかったということがあり、応募しました。
内容は二年の研修を経て農家として二年後に独立するということを前提に地域お恋協力隊という名目で給料もらいながら農業研修が受けれるという制度
これしかないということで飛び込みました
2016/3 大分の先輩の家に田舎暮らしの必須アイテム ジムニーを貰いに行く
ちょうど田舎暮らしで車が必要になりました
6万という破格の値段でジムニーを譲ってもらえました
大分経由で鳥取に行き、研修の場所に車を置かせてもらって鳥取県日南町に地域おこし協力隊(農業研修生)として移住することになります
2016/4-2017/1月 鳥取県日南町で地域おこし協力隊(農業研修)
最初は何が何やら分からずに行きました。
いろいろな式典が多くあり、何なんだろう・・・・と不思議に思いました。
しかし、徐々に明らかになっていく研修と農家の残酷な現実を目の当たりにして徐々にフェードアウトをしていきました。
特に二年あるという研修は、一年目で農地を決めて、空家も借りるか買うかして、三年目に備えるという制度。そして同期の協力隊は一人、また一人と欝になってやめていきます(笑)
そして僕は最後の方は農業研修はやめて林業の研修受けるけど、地域に根ざしてそこから動けないという町の性質とか柵とか、あとは募集広告と話が違う・・・
などいろいろな闇を目の当たりにして嫌になりました
鳥取とこの日南町は特殊です
結局僕の同期は僕を含めて2人を残して全員いなくなりました
骨を埋めるという覚悟で移住とかを決めないといけないというのは僕のなかでありえません。
そんな法律ねーし
ここで僕は農家をするよりも農業フリーターの方が身軽で拘束もなく、収入もそれほど変わらないという事実をつかみます。
だって先輩の移住者は、ビニールハウスの借金を返すために10年くらいのローン組んでその返済で一年中休みなく働いているから
そんな未来予想図が見えたということもここを撤退する決め手です。
後もっとJAとの仕組み的なことがいっぱいあったんですが書くと長いのでやめます
2017/1-2017/4 大分-四国-共生舎を経て実家に戻る
まずは先輩に報告です。
大分から鳥取までは快調に走っていたのに、いきなり5月に壊れるというトラブル。結局代々先輩から後輩に受け継がれてきたものだったので手入れとかオイルを変えていなかったらしく、そのがたが一気にきたんだって。
車検で17万も払うならもういっそのこと新しい車買ってしまえということでエブリーを買うことに。
鳥取を後にしてそのまま地元にフラフラ、と帰ります。途中大雪に捕まり、後輪二駆はけつをふりふりしながら帰ります。対向車がいきなりスピンするというところに二度も出くわし、正直死ぬと思いました
その後、ニートの日というイベントを知ります。
同時に四国お遍路プロジェクトという事の存在も同時に知ります。四国のお坊さんと和歌山の共生舎を知ります。もうどうでもいいという精神状態の僕はその二箇所に行きます
四国のお坊さんのところでニートをする
いきなり押しかけて何が何やらわからない奴と一緒に生活をしてくれて、
君には縁が必要だ
って言ってくれて、いろんな人を紹介してくれました
約10日位滞在してその後共生舎に行きました
共生舎で居心地の良さに感動する
あそこの空気は本当にポーションが蒸発しているかのごとく回復します(笑)
今では定員オーバーになっているのであそこに行けないようですが・・
2017/6-12月 職業訓練ウェブクリエーター科にかよう
侍エンジニア熟というところで静かに挫折していた僕は自分でプログラミングとか、ワードプレスのテーマが作れたらいいなとか思っていました。
ちょうど失業している今は職業訓練に通うチャンスだということでウェブクリエーター科に応募してなんとか受かります
ここではものすごく基礎的なことを学びました
そしてこの基礎を持ってすれば、巷のサンプル盆を理解できるということに大いに喜びました
訓練後は連日浦和図書館に閉館間際まで勉強と復習をしていました。ホームページというものが自分でも作れる=かけるということに感動していました
でもこれを仕事にしたいかということが自分の中で疑問でした。卒業まじかになると訓練校側の雇用保険の付いているところへの就職しろというプレッシャーがうざ買った。でもテキトーにライターに登録してそれで個人事業をしているということにした
2018/2月-9月 地元の郵便局のゆうパックの委託配送を午前中だけやる
午前中だけしか働きたくなく、僕の中で既に地方での作業ヘルパーとして半年位働いて半年位働かないという生き方と働き方をしなりをとして描き始めていた僕は、地方に行くまでの資金さえあればいいとう感じでした
そして僕の予感はあたって、郵便局のご都合主義、委託を見下しているあの振る舞いと接し方はもう二度とあそこで働きません。
そしてようやくこのバイトが終わりました
僕の生き方を始めるという段階になりました
このブログのサブタイトル的なとこに書いてあること
雇われすぎず、食うために生きない。生きるついでに食っていこう。だって腹減るじゃん的な生き方を発信するブログ
これが僕の中でのポリシーです
今ま長々と書いた経歴から導き出された僕の今のところの結論です
■今後は?
2018/10/6-8日
秋田県 八峰ターン 空き家DIY教室参加
2018/10/15-11/10位まで
高知県 生姜アルバイター
2018/11/10-12/20くらいまで
愛媛県 みかんアルバイター
っていうとこまでが決まっています
今後はJAの農作業ヘルパーのリレーを取り入れつつ季節労働のサイクルを作っていけたらいいかな?って思います
2019年をざっとおさらい
2019年1月 リゾートバイト ウィングヒルズスキー場
2019年 3月から8月まで 長野県野辺山スケートリンク 製氷かかり
英検2級取得
TOEIC R/L 615点取得+S/W テスト S 120点、W 110点
2019年 9月から10月までぎーくハウス真庭滞在
英検準一級惜敗
2019年 11月~12月20ごろまで愛媛みかんアルバイター(2回目)
来年来ればなんと自給が1100円!!どうしようかな(笑)
■今後の目標⇒年収200万で生きるために
今まで暮らしてきて家賃の支出が大きいことに気づ来ました
家賃は35000円が一番僕が払った中で高額で、これを12ヶ月払い続けたとしたら、
35000×12=42万円です
ならばいっそのこと50万位で家を買ってしまったほうが安いと思います。今までスキー場に行くときも済まない家の家賃をまとめて払うということをしてきたので、安い空家を買ったほうがとやかく言われないで済むのでいいかなと
僕みたいに季節的に住んだりすまなかったりということをすると大家は嫌がるので。特に賃貸の
だから自分の拠点をこのJAのヘルパーリレーの中で手に入れれば、もっと行きやすくなるって思います
家が手に入ればDIYしてきれいにして、低賃金だったとしても民泊とかで多少のお金にすることもできる。
資産としての運用も多少なりとも可能になります
自分の行動範囲も広がっていくので、今後は50万以内で買える空家を見つけて買っていきたいとおもます。
そしてこのページはウェブに公開していますが、自分自身に当てたものになります。四国のお坊さんの所に行って、別のお寺の住職さんの奥さんに書いてもらったものです。これを以下に見出すかが僕の課題です
ではつらつらとテキトーに生きていきます。体力落ちたな・・・
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