愛媛の駆け込み寺 安国寺に行きました!お坊さんも仏教のしがらみや檀家さんとの間でもめてるんだって
与島を経て初の四国への車のドライブでした。ペーパーだけど結構無茶をしますね、我ながら
あとはどうせ四国に行くなら前々から気になっていた共生舎にいってみればいいだろう!っていう感じで帰りに和歌山によってきた。まそれはあとに核として今は四国編を書いていくことに
◆和尚さんもメールでいろいろしんどいと・・・
仏教とか僧侶って修行をして自分を高めている人たちだから、その人たちで作られる世界はさぞ美しい世界が広がっているんだろうね!・・・
っていうわけでもないんだってさ
この四国のお坊さんも自殺や僕みたいに生きる目的がわかりませんっていうような人のために悩みに寄り添ってくれる人だったとしてもこの人だって人。
時に苦しむこともあるし、怒ることもあるし、悲しむことがある
仏の道といっても「仏」は死んだ人のことであり生きてる人のことではないんよね。お経を上げるのもお坊さんだし仏道を歩んでる人であっても人であり、仏様ではない。
これは僕の見解だから何か嫌って思ったらブラウザのバツをおしてね
さて話は戻り、二度目の四国安国寺。和尚さんもものすごく悩んでるそう。人の悩みを浄化していけば自分も貯まるものが溜まってしまって苦しくなる。特にこのお寺は壇家さんとの間が難しいんだと・・・
同じ写真になるけどこの裏山のこの木の伐採
これでもめてるんだと(~_~;)
もともとこのお寺は山寺と呼ばれるものでうっそうとした所に建っていたんだそうです。日中は日がささず、夏でも涼しい通り越して少し肌寒いくらいで冬になればもちろんもれなく寒い。
気密性の低い昔ながらの木造建築だからもう外気温と一緒なんだって
そしてこの裏山の木を切ったことが何やら賛否両論。檀家さんの中に植樹した人がいてそれを切ってしまったものだから怒っているようです。でもこれまでは鬱蒼した寺で不気味だったんですよ。その過程の写真も見せてもらいましたが本当に不気味ですよ・・・その名残か、裏の山に面した瓦は太陽光が当たらなかった分のコケがびっしり生えていました。
和尚さんいわく木があっても、たとえその人が思い入れがあったとしても住んでるこっちはしんどいんじゃ!(`・ω・´)
って言っていて、こっちだって人だと言っていた。それに気がちゃんと発育していなくて危ないんですよ。やせ細った杉の木がいっぱいあって確かに杉の木としての価値はないんですがそれ以上に強風で折れて寺に直撃とかしたら危ないしそんな木しかないからドミノ倒しになって倒れてきたほうがよほど危ないでしょ。
それで切ったんだって
しかも自腹きって
そしてこの木を切ったあとに桜の木を植えています。みんなでお花見とかを縁側でやったらいいよねって。そっちのほうが未来的な思考で好き。
あなたの植えた木が人苦しめているんだよっていうことに気づかないね。こう言う何かとモノとか自分の過去の何かしらの功績のようなものにしがみついちゃうって今の年取った人の特徴かもしれないね。
それと仏教の世界でも困ってることがあるようだ
◆仏教ってフランチャイズだといわれたこと
このお坊さんも昔は希望に燃えて仏教に入ったということは言われていました。お寺の掃除だってちゃんとしたし(してた)熱心にお経だって上げていたということはあった。でも近くのお坊さんの仏教徒としてのなんちゃらっていうのが許せなくて対立したこともあったようです。
純粋なんですね
でもあるとき仏教とか僧侶っていうものは形式的なものでしかないということをうすうす感づいてきて、人が死んだ時には形式的な儀式だけを割り切ってしていくということに疑問を持ちます。これって僧侶としての生き方としては、この人は認められなくなり次第に孤立していきます。
でもこういう人に賛同者もいて強いつながりになります。
でも中のいいお坊さんたちとはかなり距離が離れているんですよ(~_~;)これがかわいそうなところです。僕が相談をしにいったけど逆に僕がいることで思い立ったこともあるって言われていました。
宗派ごとに本山に何やらお金を払うこともあるようで、定期的に集会と集金をする以外は何も本山ってしないらしい・・修行ってなんのためにあるんだろうね。こう実際僧侶として生きている人が現実を言うと・・・
あと知り合いがいる高知のお寺には前の住職が自殺をしてしまったというお寺もあるし、こんかいはこのお寺に蕎麦打ちの見学に行かせてもらいました。
命の尊さを説く側のお坊さんですら自殺ってするんですね
お坊さんの世界も人の世なんですね。お寺ごとの力関係や上下関係があるしそこにはもちろん欺瞞も傲慢だってある。人なんだしこれが自然なんだね。
そして仏教っていうのは弱い人を助けないっていうのが印象で残っています。ちらっとですが仏教の言葉とか教えを見ただけですが、確かに自分のあり方を確立することが目的の宗教ですよね。自立した個を確立するまでの修行っていうのが仏教のお坊さんなのかなっていう印象です。
ホームレスの人たちに炊き出しをしてるのってクリスチャンの人たちはやるけどお坊さんたちはやってないよなってしみじみ思いました。別にやらないから卑下をしているわけではないです。ある人はこういうことは意味がないということをいいます
してもらうだけの人はそれだけでずっとぶら下がってるだけでその人たちを支えることに疲れたからもうやめるっていう人
確かに一理あります
基本的に仏教は自分を鍛えて個を強くすることに趣が置かれている教え、それと神様でない(笑)っていう感じのことしかわかりません・・・で
ちょっと僕病んでいて、「本来の面目」とか「直視人指」・・・(だったかな・・・感じしかないから難しい)っていう教えって本当にそれがわかったらどんなにいいか・・・って思う。
でも本山ていうところからお寺と住職という地位は渡されるけどあとはロイヤリティみたいなの定期的に払って本山っていうところの集会に行くだけだって。うーん・・・確かにフランチャイズだね。
それにお寺って本来は誰でも来れる場であり、困った人を助けるのが本来の僧侶としてのあり方ではないか?という自問自答からこの和尚さんは独身を貫いてお寺が世帯にならないようにしています。だからお寺には鍵をかけないしいつでも誰でも入れるようにしています
それが故に空き巣に困っていますが・・・
それでも裏切られてもこの道を貫いています。
今回もいろいろと縁をつないでもらいました。今回は高知までの遠征でした。これはまた後ほど
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人に会うのも色々な気付きがあって大事なことだと思う、
誤解を恐れずに言うならカウンセリングだとか
医療に助けを求めるのも必要じゃなかろうか。
生きづらいのにはそれなりの理由があるもんだ。
そうですね。すべて育ってきた環境にあると和尚さんは言われます。その通りと思います。過去のトラウマが苦しめていたり、何らかの出来事や誰かから言われた言葉を引きずってしまうのは仕方ないですよね。
制度よりも立場の保守をしない和尚さんみたいな人歯科本当の意味で人を助けるということってできないとぼくはおもっています。
医療なども手ですが、その問題を生じているのが孤独としたら、それらでは満たされないものがあるし直せないと僕は思います。
医療もカウンセリングも一理あるサービスですしその道のプロがいるのでそれらの助けも必要なのは同感です。
わざわざコメントいただきありがとうございます
[…] 愛媛に突撃した当時の記事 […]