[僕の高校野球時代の恩師]0か100だけではない。甲子園至上主義よりも幅を広げることのほうが大事だと高校野球の構造と現状に言いたいこと
さてさて、今回は前回の高校野球の記事を書いたから、ちょっと僕の高校野球時代のエピソードを一つ書きます。
基本的には高校野球の監督は恩師といわれています。でも僕にとっては反面教師でしかなく、僕が勝手に恩師とあがめている人は、高校時代に一日だけあっただけです。でもこの考え方が今の僕を作り、これからもこの考えのまま行くのだろうなって思います。
今のSNSや世間は極論があふれています
特にホリエモンの起業したほうがいいとかいうようなやつですね
でも、僕は高校二年の冬にスキー合宿に行ってこけてよりによって利き腕のほうの肩を脱臼して選手生命事態を不意にしたというあほな奴です
この冬にOBでもない他行の人が来て、この人の考え方に感動して、今も忘れずにいます。価値観が多様化した今、こういう考え方があっているのではないかと思います。ただ、僕はつらつら書いていきたいから書いていきます
◆他行から来た人は実はプロ野球選手だったということに衝撃を覚えた
確かあれは高校2年の冬のオフのトレーニングだった。ある日突然監督が一人連れてきたんです。自己紹介もほどほどに、その日の練習を一緒にして、改めての自己紹介と経歴を話してくれたんです
第一声が
「僕はプロ野球の選手です」
っていう第一声に僕は唖然とした
ティーバッティングをしたときに確かにバットスイングのすごさ、特に音の大きさにビビった。右打ちだったけど、見る限りフォワードタイプのバッターだった。右腕のほうが強く、右腕でバットスイングをしてくるタイプの人っていうのがわかった
でも守備はお世辞に日本のプロと比べると断然劣ってしまうレベル。むしろあの当時のレギュラーメンバーのほうがはるかにうまい印象だった
練習が終わった後のその人のプロ野球生活を聞くと新鮮だった
そもそも僕が高校野球をしていた当時は19年位前だ。ちょうど2000年くらい。そのときにその人は日本のプロ野球リーグではやっていけないということはわかってやっていたんだと断言した。でもその代わりに、野球先進国の日本に対して野球後進国のイタリアやフランスの独立リーグがあり、そこでプロとしてやっていけるということを確信して、高校を卒業して多少の渡航費を稼いだらすぐに海外にとんだって言ってた
ちょっとここら辺が思い出せないのが悔しい
トライアウトを受けてプロの契約をした。その人の目的はプロの野球選手になることだった。
それをかなえてあの日その人は僕の目の前に来たんです。ちょうど帰宅部がうらやましいとか、野球以外の選択肢がないものかと考えていた時でもあった僕にとってはまぶしかった。
◆その人の高校野球時代を聞いて僕は少し奮い立った
この話が僕が一番好きだった部分です
そもそも、この人は僕の地元埼玉の別の地区の高校でレギュラーですらなくそれほど練習もさせてもらえなかったと話を切り出した
そんな状態の自分がOB面をして練習に参加しに行ったとしても、監督もおぼえてないだろうし、他人だし、他人ならいっそのこと本当に他人としてほかのところに行ったほうがましだと考えて当時の僕の母校に来たって言ってくれました。
こういう人が僕は好きなんです、なんでか
でも1日の練習に参加するには当時の監督よりも勝負に冷静で冷徹な部長という人がいました。監督業はもう引退して投手だけを見るピッチングコーチがいました。その人が育てた人は甲子園でもキャッチャーとピッチャーを兼任してプロに行きました。
ただ監督と違うところは情に冷たいというところです
わざわざ赤の他行のOBを何で練習に参加せるのかと大喧嘩したんですよ、監督と(;´・ω・)確かにその部長のほうが筋が通っています。僕はレギュラーになれないと分かった時からブルペンでその人と一緒にピッチャーをみていましたからよくわかります
でも温情派の監督はその人の毒気のなさか、一途さを認めて練習に参加することを許してくれました
その人が当時所属していたチームはプロといっても所詮は独立リーグで、結局は年棒をもらったとしても赤字だといっていて、レギュラーシーズンはあっちで野球をして、レギュラーシーズンが終わると日本に出稼ぎに来て翌年のレギュラーズンの遠征費やら渡航費やらをためて、またシーズンが始まったら渡航するっていうサイクルで回っているといっていました
プロの野球選手になる
それを目的とするならば、別に日本のプロ野球リーグにこだわる必要って全くないんだなって思いました。
そして当時から高校野球の態勢とかって絶対に変わっていないって思うところがあり、特に強豪校における部員の過度な競争にさらされてしまうことは教育の一環としては絶対に行けないって思います。
◆正直言うと高校野球はもっと選択の幅を広げることをしないと大けがが増えると思う
高校野球=甲子園だけを目指さないといけないというこの価値観は正直いらないし、野球人口が増えない原因でもあると思います。
最近の高校生はやたらめったら早いボールを投げるし、その早いボールをカンカン打つからすごいよね。僕の時代なんてヒット一本よりもセカンドゴロのほうが安心できるっていう感じでした。監督に怒られない。フライを打とうもんなら打ち首獄門に匹敵するくらいに怒られる。これに委縮して打てなくなってたな(笑)
この幅っていうのは
野球のやりたい度合いに応じたトーナメント制度なり、リーグを作って、競技レベルの均一化を図らないと正直言って大怪我する選手が増え、最悪死人が出るって思います。
僕は埼玉出身なんですが、特に有名私立のシードの下に野球はやるけど甲子園はいいですっていう感じでやってるチーム同士が来て、どちらかが買ってその市立をあたると悲惨になるんですよ。
やはり、体格も違う、投げる球の速さも違う、特に一番危ないのは打球の速度。金属バットをより強く触れる選手たちがフルスイングして放つ打球は半端じゃないんですよ。守備における反応速度は雲泥の差で、攻撃が終わらないんですよ。5回コールドまでに何十点入るかわからないくらいに試合が終わらない・・・
ピッチャー返しが行くと反応できないと思うんですよ。だから余計に危ない
野球をやりたい度合いに関しての細分化をしたうえで大会をしたほうがいいと思うんです
◆高校野球は硬式で甲子園を目指すでもなくていい。その人がやりたい度合いも選択肢として選べる制度を作るべき
球数制限を入れた場合、まず間違いなく投手が一人しかいないところは勝てないでしょ?
それに球数制限に賛成なのはプロを意識している人たちがドラフトにかかるかもしれない子に対しての配慮だと僕は思います。確かにけがを防止するというのもあります。投げさせすぎだし指導者も正直言って悪いというところもあります。高校3年間の思い出と引き換えにヘルニアや健康の問題を抱えて80年生きていかないといけない。これって割に合わないと思う
それに高校3年間のアマチュアの大会の果てに何を求めているのか?っていうところが疑問です。こればかりは個人の価値観なんで止める気はないです。それと引き換えにその人が得られるものがあり、その代償がその先に人生にマイナスの要素を落とし続けていかなければそれでいいです。僕個人は
それに腰を痛めたり何かしらの持病とかは健康保険の治療費を使われるといやだから雇わないっていうところもあるとか高校の進路指導のときにい聞いたこともある。正直今振り返ればこれは嘘くさいけど(笑)
僕としては野球人口は減っているし、特に高校で燃え尽きてその後大学でもサークル程度でやるとか社会人野球をやるとかの機械すら減っている。ライフスタイルの一部とか、ライフワークとしてのレクリエーションの要素を持った野球をやるという人がガクッと減るんですよね。社会人になるととくにね
高校にも軟式はあるし、準硬式だってある。でもこれらはかなりマイナーな部類で意外と知られていないし、そういう部活がある高校って実は小数です。
野球をやるのにも、まじめに真剣にやるのもいいですが、別にバットとかグローブをもってきゃっきゃウフフでもいいと思う。そういう人たちだって野球人口にプラスされるわけだし。多少意識のずれが出てきたら、そこにとどまるのか、それとももう少し意識の高い次元でやってるチームに移るのかはその人の決定にゆだねられるべきと思う。
僕の結論としては、球数の制限を設ける公式大会に出場するところとしないとこをあらかじめ登録の時点で分けてしまい、シリアスプレイヤーに属する高校だけで大会をしたらいいだけの話と思う。高校野球連盟がすべてを仕切る必要がないって思ってる。
その他は部員の規模ややりたい度合いにおいて高校軟式なのか、準硬式か硬式かを選べばいい。もちろん甲子園はないっていう風になるけど。そうやって、競技力の均一化を制度で敷いていく必要があるって思う。
これが僕の結論。
この結論が出たことにはもう一つの出来事があるから
◆僕の代で有名私立のの2軍戦に行ったときに出会ったやつ
某有名私立になんと練習試合に行くことになったことがある。
もちろん僕はすでにレギュラーをあきらめて、痛い方との格闘をしていた。自業自得なんだけどね
そして僕のようなベンチに入れない選手は一時、トレーニング室で待機することになった。するとそこになかなかの毒を吐くやつがいた
「お前まだ練習できてんの?レギュラー?」
ってぶっきらぼうに、やさぐれ気味に聞いてきたやつがいた。俺は正直にけがしたし、もう無理だよって素直に言った。彼は「俺も・・・」といってなんか気が合ったんだよね。そのあとは毒を吐きあって意気投合したんだよね(笑)
なんか寮の食事でカレー風味の肉が激まずいから寮から出たいとか言っていたのを覚えている
彼は僕と同い年で、頑張っていたけど2年の秋に戦力外通告をされて以来、漠然とトレーニング室で過ごしてた。野球をやりたい、甲子園に行きたいから強いところを選んでそこの競争に身を投じるっていうのは、ある意味純粋な野球少年としては一般的だし、それはそれで構わないと思う。
でも、野球をやりたいという高校生に野球をやらせる価値のないと判断してそのまま放置という状態は部員数のおおい強豪校にには必ず大多数います。中には世代ごとに甲子園に行けるかどうかを判断して3年計画で甲子園を目指すというコンセプトのチーム、基本的に練習の質を保つために30人ないし40人以上は部員を取らないという少数精鋭のところもあります。
しかし、こういった体制自体は教育の一環としては僕は考えられません。その先にあるものは?
学校の宣伝?
名誉?
選手にとっては思い出?
プロ野球のドラフトにかかること?
教育の一環としての位置づけのはずの高校野球は正直ねじ曲がってきているって感じます。
話をトレーニングルームで腐ってたやつの話に戻しますが、甲子園を目指して過度な競争にさらされ、その競争に勝てなければ、最悪強豪私立の高校では青春の3年間を失意のまま過ごさないといけない現実もあるし、この現実を見た人間のほうが正直言って多いと思う。
野球をやりに推薦できて、奨学金で授業料とかを免除になる代わりに野球部に籍を置かないといけない彼らは、戦力外という通告を受けたことを親に言えずにいました。
この状態は教育の一環といっていいのか?
ただの放置という虐待でないの?って僕は思っています。だってその高校の監督はそういう子たちの顔も名前だって覚えていないんだから。毎年流れ作業のように甲子園を目指すためにスカウトは全国の有望な選手を見つけ、声をかけて、入部してきた子たちをしごいて、その中から競争にこぼれた子に戦力外を告げてところてん式に新しい戦力を補充していく。
野球をやりたいとは言ってきた高校生に途中でもう野球をやらせないと告げてそのまま
そこから這い上がるということも教育なんでしょうか?
誰が何を教えてくれるんでしょうか?
今はやりの自己責任論ですか?
チャンスや機会が限定的で、そこを目指してあぶれたりこぼれたらそれまでというのは正直言って残酷でしかないです。機会はもっと平等にあったほうがいいし、途中でもっと柔軟に退部してもいいというような、そのあとの選択肢もいっぱいあるような、そんな感じの部活がいいんです。アメリカは掛け持ち自由だし、そっちのほうが一つの価値観だけを持ちづけていないといけないということを強要しているように思います。
僕は野球をやめてから世界観が広がりましたね。練習とグラウンドの往復だけでは人生のQOLは上がりませんでした、僕の場合は(言い過ぎかな)
競争に勝つということと同じくらい重要なのは横に幅のある選択肢を見つけるということでもあると思います。
彼を今思い出すと今書いたようなことが頭に浮かびます
高校野球はもっとチームや団体の競技力に応じて大会やリーグを運営していかないといけないって思いますし、いっそのことサッカーみたいにユースとかをわけてしまったほうが気持ちがいいって思います。
もっともっとニーズに応じての細分化を図っていけば野球人口は増えると思いますよ
ああ、書いた書いた
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